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昭和の時代を振り返る-17(昭和15年-②)

2014-09-24 14:47:06 | 昭和史
今日は「昭和の時代を振り返る」を続けます~
  
 ♪ああ あの顔で あの声で  手柄たのむと 妻や子が
       ちぎれる程に 振った旗  遠い雲間に また浮かぶ~ 
          
            (暁に祈る 伊藤久男 歌)

1937年(昭和12年)7月7日、日本軍と中国国民党軍が衝突し、盧溝橋事件が勃発する。
以降、上海事変を経て日中全面戦争に至ったのである。

この時期(1940年5月)、ヨーロッパ戦線では激動期に入り、ドイツ軍はオランダ、ベルギーを席巻、6月にはパリを占領し、親独派のヴィシー政権が成立し、ドイツ軍の進撃を背景に日本政府は6月24日、英仏にビルマルートおよび香港経由による援蒋行為(蒋介石を手助ける行為)の停止を要求している。

7月18日、英国は日本の要求に応じ援蒋ルート(ビルマルート)を閉鎖。 7月26日、基本国策要綱で「皇国の国是は八紘を一宇」とする肇国の大精神」が唱えられた。7月27日の大本営では南方問題解決のため武力を用いることが決定された。8月1日、松岡外相は日本満州シナを一環とする大東亜共栄圏確立という外交方針を発表した。 

こうした状況下で日独伊三国同盟締結へと進む。

【日独伊三国同盟】のこと

1940(昭和15)年に日本・ドイツ(独)・イタリア(伊)の間に結ばれた軍事同盟である。で、この同盟は、昭和11年に結んだ日独伊三国防共協定でつながりを深めていた3国が、第二次世界大戦下で更に強く手を結んだものである。

同盟条約で、ヨーロッパとアジアでの指導権をそれぞれが認め合い、日中戦争や世界大戦に参加していない国、特に米国からの攻撃に対して3国は互いに協力して戦うことを決めたものである。

ー締結に至る経緯ー    
この同盟に至るには、各国にそれぞれの思惑があった。三国の思惑とは?・・・・・

(日本側の思惑)
日中戦争で既に莫大な戦費を費やしていた日本は蒋介石政権を支援するアメリカと鋭く対立していた。 欧州戦線にて快進撃を続けるナチス・ドイツを見て日本政府はドイツと手を結びアメリカを牽制しようと考えた。三国同盟の締結に対し英米協調派が比較的多かった海軍は反発したが、親独的な陸軍や近衛・松岡らの説得によって北守南進の国策に沿って条約締結に進んだのである。

(ドイツ側の思惑)
第二次世界大戦に突入後ヒトラーは激しく抵抗するイギリス本島の攻略を半ば諦め、主義や思想に対立するソ連をゲルマン民族の生存圏拡大の為に撃破しなくてはならないと考えていた。 しかし、巨大な工業力を持つアメリカ合衆国を警戒したヒトラーはアメリカを牽制する為にアメリカ及びソ連と背後で対立する日本と手を結ぶことが得策と考えたとされる。

(イタリア側の思惑)
同じファシズム国である日本とも関係を深めてアジアにおけるファシズムの影響力を深めることで、戦後世界でのイタリアの発言力を強めようと考えていたらしい。更に、ドイツと既に同盟を結んでいたという既成事実がイタリアの条約参加に拍車をかけたようだ。

こうして利害関係の一致をみた日独伊は三国軍事同盟を締結するに至っている。

しかし 恋焦がれてた♪みんなで肩をくみながら~の三国同盟であったが、この先の日本は“行く(19)(4)なし(0)”の1940年(昭和16年)になろうとは・・・。紀元二千六百年の悪しき年のことである。

つづく

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