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もうすぐ終戦の日-3(開戦・真珠湾攻撃ほか)

2011-08-12 12:44:43 | 太平洋戦争史

太平洋戦争は、ハワイ、マレー、フィリピン、香港、グアム等に日本が先制攻撃を行なって始まっている。

大本営の作戦では、ハワイ空襲開始とマレー上陸開始の相互関係については特に熟慮して同時攻撃を行っている。何故なら、一方が先行すれば他方の急襲が失敗に終わる恐れがあったからである。

 昭和16年12月8日朝7時、ラジオは突然臨時ニュースのチャイムを鳴らした。

以下、その日を再現する。

臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申上げます。大本営陸海軍部午前6時発表。「帝国陸海軍部隊は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。」 

  ♪守るも攻むるも くろがねの  浮かべる城ぞ たのみなる
   浮かべるその城 日の本の  皇国の四方を 守るべし
   真鉄のその艦 日の本に  仇なす国を 攻めよかし~
              (軍艦行進曲)

 この日のラジオは、一日中数々の軍歌にのせて開戦ニュースを流していたそうである。

「真珠湾攻撃」のこと

 

ご案内のとおり、昭和16年(1941)12月8日(ハワイ現地時間12月7日)に、日本海軍の機動部隊が航空機を主力にハワイの真珠湾にある米海軍基地(アメリカ太平洋艦隊と航空基地)に対して行った奇襲攻撃のことである。

 

この作戦は、連合艦隊司令長官山本五十六の構想の下に行われ、これによりアメリカ・イギリスに宣戦して太平洋戦争へと突入、この時点で日本とアメリカも第二次世界大戦に参戦することとなる。

 

作戦経緯をみると、11月に日本海軍機動部隊は真珠湾攻撃に備え、千島列島の択捉島単冠湾に集結し、26日に、連合艦隊命令により、ハワイ沖に向け出航している。機動部隊は、12月3日に山本長官の激励の電報を受け、12月7日 0700(現地時間1230)旗艦赤城のマストに「 皇国の興廃この一戦にあり 各員一層奮励努力せよ 」の信号を掲げ、オアフ島からの敵飛行哨戒圏内に突入して行く。

 

これとは別に12月7日夜 開戦時の配備についた先遣部隊のうち特別攻撃隊特殊潜航艇5隻は、同夜真珠湾外において各々母艦を発進している。その後、特別攻撃隊はラナイ島の西方海面で収容配備についたが、発進した5隻の特殊潜航艇は1隻も帰艦することはなく、♪トラトラトラ(我レ奇襲に成功セリの暗号電)黄泉で聞く~こととなった。

 

なお、この奇襲攻撃で軍事施設以外を攻撃しないように目標を限定したため、一般市民に与えた被害は少なかったようである。この奇襲攻撃の戦果は、 戦艦・巡洋艦など船舶の撃沈・大破が18隻、航空機が200余機、戦死・行方不明2,400余人、戦傷2,380余人。一方、日本軍の損害は、飛行機では、喪失機29機・要修理機122機、特殊潜航艇5(乗員9名戦死 1名捕虜)、戦死搭乗員55名 とある。

 

しかし、その日の真珠湾には米国主力艦隊はここには居なかったので無傷で残り、その後の戦いに日本軍は窮地に追い込まれることになるのである。

 

「コタバル上陸」のこと
 

真珠湾空襲に先立つこと約数時間前、12月8日午前1時30分第18師団・歩兵第23旅団長佗美浩少将率いる先遣部隊がマレー半島東北端コタバルに敵前上陸を敢行している。

 

 太平洋戦争がこの時に始まったのである。 守る英軍は、歩兵第8旅団を主力とする約6000の兵力で海岸一帯に防御陣地を築いていたようである。鉄条網をめぐらした陣地は水際から50~70M付近に構築され、その後方には散兵壕があり、地雷も多数敷設されていたそうである。

 

この戦闘で、死傷者700名、上陸用舟艇の沈没15、損傷10と、多大な犠牲を払い激闘4時間の末、海岸線を制圧した上陸部隊は直ちにコタバル市内を占領したとある。

 

この間、上陸船団の「淡路山丸」などが被弾し、再度の揚陸作業のやむなきに至るも、その後11日には補給基地トンバット、12日はムロン、13日は航空基地タナメラと電撃的に部隊を進めていったとある。

 

こうして太平洋戦争は、旧日本軍の「真珠湾奇襲攻撃」と、ここマレー半島の「コタバル敵前上陸」をもって開戦したのでる。

この先 玉砕・本土空襲の悪夢の日々が続くことになろうとは、誰もが思わないままに暮れた12月8日である。

 

早速、その後の戦局をみてゆく。


もうすぐ終戦の日-2(開戦に至る経緯)

2011-08-11 12:48:09 | 太平洋戦争史

太平洋戦争に至った要因はなんだったのだろうか?

昭和12年(1937)に勃発した盧溝橋事件の後、日本は、アメリカ・イギリス・オランダ等との間で、対立が深まっていた。双方は以前から中華民国(支那)における利権を巡り対立していたのである。

日本は当時中華民国領へ侵出していた。これに対し、アメリカ、イギリス、支那、オランダ等は日本に対して中華民国領への侵出を停止することを求めていた。そのなか、なをも申し入れを拒む日本に、四ヶ国は、遂に「石油と鉄鋼の輸出制限」などの措置をとる様になある。(現在の北朝鮮が置かれている立場に似ている。)

このことは自国に対する挑戦であると反発した日本は、ドイツ・イタリアと「日独伊三国軍事同盟」を締結し、発言力を強めようとしたが、かえって日独伊と英米などとの対立を一層深める結果となったようだ。苦境に立つ近衛文麿内閣は、昭和16年4月から関係改善を目指してワシントンでアメリカと交渉を開始したが、7月に日本軍がフランス領インドシナへ侵出すると、両者の関係は決定的に悪化し、アメリカは「在米日本資産の凍結」、日本への「石油輸出の全面禁止」などを通告している。

こうなっては近衛内閣もお手上げである。10月に近衛内閣から代わった東條英機内閣は、11月20日アメリカに対する交渉最終案を用意して来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使がハル国務長官に対し交付し、以後の最終交渉に当るも、蒋介石、チァーチルの働きかけもあるなか、11月26日朝、アメリカ海軍から台湾の船団の移動との報告を受けた(実際は輸送船であったがアメリカ海軍による故意の過大報告)ルーズベルトは両案とも拒否し、中華民国・インドシナからの軍隊警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含むいわゆるハル・ノートを来栖特命全権大使らに提示したのでこれを日本に対する最後通牒と受け取った東条内閣は12月1日の御前会議において日本時間12月8日の開戦を決定している。

こうして運命の昭和16年12月8日を迎えるのである。


もうすぐ終戦の日-1(はじめに)

2011-08-10 12:13:49 | 太平洋戦争史

お盆の15日が近づいた。

今年は 先の「太平洋戦争」の66回目の終戦の日(終戦記念日)である。

今日より 当時の一端を思い起こすこととする。

先ずは、未履修科目・日本史のうち神の国をみる。

神の国とされた日本の戦史を辿ると、古くは、文永(1274)・弘安(1281)の二度に亘る蒙古来襲も神風?が吹き、フビライの元(モンゴル)軍に不戦勝したのである

それ以来、明治維新を終えて富国強兵を図った明治期には、♪日清談判破裂して~品川乗り出す東艦~と、征清歌を唄った日清戦争(明治2728)では、清国海軍主力艦・定遠をも撃破して勝利を収めている。

更にその10年後には、今度は当時の軍事大国・ロシア♪一列談判破裂して 日露戦争はじまった~の、世紀の一戦日露戦争(明治3738)に臨む。

この戦いでは、世界最強とされたバルチック艦隊を有するロシアに、東郷平八郎元帥率いる日本連合艦隊が、T字作戦を用いてこれまた撃破している。

よって乃木大将が、わが息子等を犠牲にして悪戦苦闘した不落の要塞・203高地を漸く陥れることとなる。

これより以前、広瀬中佐の轟く砲音飛び来る弾丸~荒波洗うデッキの上に~・・と、唱歌で唄われた、数次にわたる旅順港閉塞作戦も侭ならずの果てに、この203高地陥落で、漸くにして旅順港の敵艦隊を全滅に至らしめたのである。

この報に日本国中は、日本勝った~日本勝った~ロシァ負けた~ロシァの皇帝腰ゃ抜けた~と唄い、各地で提灯行列が行われている。

しかし、ここまで負け知らずの神の国ではあったが、昭和期に入るや、その神話も崩れ、米英などからなる連合軍に嫌と云うほど叩きのめされ、漸く悪しき夢から目が覚めたのである。

さて、どうしてあの太平洋戦争に至ったのだろうか?・・・。かっては神の国とされた日本の道程、そしてこの戦争に至る経緯と以下の主な戦況を検証するものである。なお記述は以下の「戦時年表」に従い、思いつきの独断と偏見によるものであることをお断りしておく。

【戦時年表】
1
奇襲攻撃 ハワイ真珠湾・マレーコタバル上陸   (昭和16128)
2
マレー沖海戦・シンガポール進攻作戦       (昭和161210日)       
3
ミッドウェー海戦 ガタルカナル島作戦      (昭和17)
4
アッツ島玉砕・学徒出陣            (昭和18年)
5
マリアナ沖海戦・サイパン島玉砕・レイテ沖海戦・東京爆撃(昭和19年)
6
硫黄島玉砕・沖縄決戦・広島原爆・長崎原爆   (昭和20年)
7
ポツダム宣言受託
8、その他関連

次は 「開戦への経緯」~「開戦」を見る。 


広島・原爆の日

2011-08-06 12:20:41 | 出来事

今日8月6日の広島は、66回目の原爆忌を迎えた。

昭和20年(1945)8月6日の今日、中部太平洋のテニアン基地から飛来した米戦略爆撃機B29エノーラ・ゲイは、午前8時15分17秒、広島に原子爆弾(リトル・ボーイ)を投下した。

リトル・ボーイは爆弾倉を離れるや横向きにスピンし、ふらふらと落下した。間もなく尾部の安定翼が空気を掴み、放物線を描いて約43秒間落下した後、高度約580mの上空で核分裂爆発を起こし一瞬にして広島を廃墟の町に変えた。

爆心地から半径500mにいたほとんどの人々が即死し、当時の広島市には35万人(推定)の人が居たが、うち約14万人がこの一発の原爆で死亡したとされている。

今朝は、式典会場である平和記念公園には約5万人が出席した由。

松井一実・広島市長は平和宣言で「今なお続いている放射線の脅威は、原発に対する国民の信頼を根底から崩した」と指摘、早急にエネルギー政策を見直し、具体策を講じるよう日本政府に求めた。

 また、式典では、松井市長と遺族代表2人が、この1年に亡くなった被爆者ら5785人を登載した原爆死没者名簿を、原爆慰霊碑下の奉安箱に収めた。


今日の式典ひとり広島だけのものではなく、核の根絶は全人類の願いであり、

広島・長崎の輪を全世界に広めてゆかねばならない、と痛感した次第である。

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黙祷・合掌