デカルトは西洋哲学の父と呼ばれている。彼の合理精神が哲学をはじめとするヨーロッパ文明に大きな足跡を残したことは間違いないが、有名な「私は考える、ゆえに私はある」については、一般的に大きな誤解が流布されているように思う。私が高校の倫理社会で習ったのはこうである。
「あらゆることを疑ったとしても、ここに疑っている私があるということは疑えない。」 だから私が有るということは間違いない。この「私」を橋頭保として、合理的で整合的な世界観を築き上げていった。
大体のところ、一般にはこのように理解されているのではないだろうか。しかし、ちょっとよく考えてみればわかることだが、たとえ「私」が確実なものであったとしても、疑えるものはすべて疑うのなら、確実な「私」から一歩も踏み出すことはできない。結局、この世で確実なものは「私」だけとなって他のことは何も言えないことになってしまう。実は、デカルトの哲学的懐疑のもたらしたものは「懐疑論」として、現在でも多くの哲学者が格闘している大きなテーマとして残されている。
デカルトのもたらした哲学的意義は、我々が見ているものは観念であり、実在そのものとは言えない、ということを初めて指摘したことにある。やがて、そのことはカントに引き継がれ超越論的観念論として結実したのである。
そのカントは、「私は考える、ゆえに私はある」について、この考える「私」を直観できないとのべている。つまり、この「私」は「無」であると見抜いたのである。ただ、それを「無」とは呼ばず「超越論的統覚」と名付けた。西洋哲学と東洋哲学はアプローチの仕方が全然違うが、意外と折り合えないものではないのではないかと私は考えている。