禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

なにが現実か?

2020-04-28 11:01:34 | 哲学
 大森荘蔵という哲学者の門下からは、野家啓一、飯田隆, 野矢茂樹、中島義道、‥‥、そうそうたる人物が輩出している。まさに日本を代表する哲学者であると言ってもよい。文筆家としてもすぐれていて、彼のエッセイは(少なくとも私には)例外なく面白い。それで最近、彼の「流れとよどみ」というエッセイ集を読み返している。そして、そのなかにとても気になる箇所があったのでご紹介したい。

 われわれはなにを現実と呼んでいるのだろうか。それは何よりも先ず自分自身の命にかかわることであろう。そしてそれとともにまた、自分の生きている状態とでもいえるもの、例えば苦痛や快楽、気分や感情とかである。否応なく自分の命と生にかかわるもの、それがわれわれの現実の核である。
 だから痛みにはまぼろしはありえないのである。激痛におそわれている人に向かって、君は今、痛みの幻覚におそわれているのであって本当は痛みなんてないんだよ、ということこそもっとも非現実的であろう。それと同様、悲しみや喜びにも幻はありえない。幻の賞金で喜ぶことはあっても、その喜び自体はまぼろしではありえない。ある妄想のため怒ることはあっても、その怒りは怒りの幻覚ではない。このように人間の生きることそのものである苦痛や感情に幻があり得ないのと同様に、同じく生きることの核心である「さわる」ことにも幻はありえない。手で掴んで触れ、口で触れ、いちょうで触れるものが幻だということはありえない。そういうものこそわれわれが「現実」と呼んでいるものだからである。 (P.3)
 
 なんだ、わざわざ取り立てて言うほどのことはないじゃないかと言う人は、正常な感覚の持ち主だと思う。デカルトが「君は今夢を見ていないとどうして言えるのか?」と問いかけて以来、大抵の哲学者は「懐疑病」という病にかかっている。「私は今夢を見ていない」ときっぱりと言い返せないでいるのだ。いまだに懐疑論という分野が哲学の中心にどっかと位置を占めている。大森はそれに対する一つの出口を示しているのであるが、その方向性は禅的であると言っても良いのではないかと思う。禅の公案には大森の言う「人間の生きることそのものに目を向けさせようとするものが多いのである。4月2日の記事実感を持って生きる」で、関山国師が教えを乞いに来た農民夫婦の頭と頭をガチンと鉢合わせしたというエピソードを紹介したが、生きることの実感の尊さを直に示した、と考えればつじつまが合う。禅者にとっては現前するものこそ真実である。「痛い」という事実、そこに懐疑の入る余地はない。
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