この世界をつぶさに見れば、あらゆるものは停止することなく不断に流動している。それが無常である。 前回記事では、その無常が自己の存在理由に対する脅威となるということについて述べたが、今回は無常がそのまま空思想につながることことについて説明したい。
常に流動しているということは完成形というものがないということでもある。いかなるものも偶然的かつ過渡的で不完全なものでしかない。例えば、人間というものについて考えてみよう。「人間」というものがあるのかどうか? などと言うと訝しいと思うだろうが、われわれはなにを「人間」と呼んでいるのかということを実はよく分かっていないのである。周囲の人間を一人一人見ていくと、誰一人として全く同じ人はいない、一卵性双生児と言えども仔細に点検すると全く同じではない。それでも、それらの人々がすべて人間であると分かるのは、どの人間にも共通の「人間の本質」があるからだと考えられている。ギリシャ以来の西洋哲学ではその本質を抽出した範型をイデアと呼んでいる。問題はそのイデアが果たして本当にあるのかどうかということである。
人間のイデアが存在するのであるとすると、地球が出来たときは人間は一人もいなかったはずだから「最初の人間」が存在する筈である。旧約聖書では最初の人間はアダムとエヴァだとされているが、現在ではそれを信じているのはオーソドックスなユダヤ・キリスト教徒くらいなものだろう。進化論を採用するならそして人間のイデアがあるとするなら、最初の人間は人間以外の親から生まれたことを認めない訳にはいかなくなる。そこで問題となるのが、人間と人間以外の境界が客観的に決定できるかということである。イデアというものが本当にあるのなら、人間と人間以外の境界は客観的に判断できるものでなくてはならない。誰が見ても、この親は人間ではないがその子供は人間であるということが、判然としなくてはならないはずである。現実には、生物学上の種の定義というものは現在でも明確には決定されていない。進化論に鑑みると、衆生は神の設計図(イデア)に従って造られたわけではなく、偶然に出来たものにほかならないからである。
人間という概念は人間以外との比較の上に成立しているが、その境界は恣意的なものに過ぎない。それは人間だけに限らずあらゆる概念に共通している。だから、仏教は絶対性というものを認めない。あらゆるものに自性(本質)というものは無いと説く。自性(本質)というのは他のものとは独立してそのものだけで存在し得るという性質すなわちイデアのことである。すべては無性であるから、いかなる概念も流動する関係性(これを縁起という)の中で成立しているに過ぎない。だから永遠に不変なものは物質上だけではなく概念としても存在しないと説く。それが空観である。
概念が本質を持たないなら、言葉で真理を語ることも不可能である。不立文字とはそのことである。