無門関の第二則である「百丈野狐」の公案を「臨黄ネット」より引用します。
百丈懐海禅師が、講座上で雲水達に向かって説法する時、いつも雲水達の後で静かに坐って聞く一人の老人がいました。
講座が終わると老人も雲水と一緒に退出しますが、ある時、老人は退かず一人残ります。百丈和尚は不思議に思い、「一体、お前さんは誰か」と問いかけます。
老人が答えます。「実は、私は人間ではありません。ずうっと昔、迦葉仏(かしょうぶつ)の時代、この寺の住職でしたが、ある時、一人の修行者が質問しました。『修行に修行を重ね大悟徹底した人は因果律の制約を受けるでしょうか、受けないでしょうか?』と。私は、即座に、『不落因果――因果の制約を受けない』と答えました。その答えのゆえに五百生(五百回の生まれ変わり)もの長い間、野狐の身に堕とされました。なにとぞ、憐れと思うて私に代わって正しい見解をお示し下さい」と懇願します。
老人は威儀を正して、「大修行底の人、還って因果に落つるや也た無や」と問いかけます。
百丈和尚、即座に、「不昧因果――因果の制約を昧まさない」と答えます。
老人は言下に大悟して野狐の身を脱します。
悟りを開くと自在の境地を得ると言われています。「修行を重ね大悟徹底した人は因果律の制約を受けるか?」と問われて、老人は「不落因果――因果の制約を受けない」と答えて、狐にされてしまった。それで、その狐となった老人は百丈禅師にどのように答えるべきだったかを訊ねたところ、百丈は「不昧因果――因果の制約を昧まさない」と答えた。それを聞いた老人はたちどころに大悟して野狐の身を脱したという。
では、老人は最初から「不昧因果」と答えればよかったのだろうか?おそらくそうではないでしょう。この問題の本質を理解せずに、「不落因果」と独断してしまった、それが問題です。
ここでちょっと西洋哲学の方に目を転じてみましょう。ニュートンが万有引力の法則を発見し、いわゆるニュートン力学を完成すると、西洋哲学は非常に大きな問題にぶち当たりました。すべての現象が物理学によって説明されるのではないかと考えられたからです。もし人間の精神活動も脳内で起きている科学現象に還元されてしまうとしたら、人間に精神の自由はなくすべては機械論的世界観の中に組み込まれてしまいます。
プロシアの哲学者カントは、理性の限界について論じるために、4つのアンティノミーというものを提示しています。アンティノミーというのはふたつの矛盾・対立する命題が同時に成立する事態のことです。カントは以下の4つのテーマについてそれぞれ背反するテーゼとアンチテーゼが同時に成立することを証明しています。
① 世界の時間的な始まりと、空間的な限界があるのかどうか
② 世界の究極的な構成要素としての最小単位があるのかどうか
③ 人間の自由に基づいた因果関係があるのかどうか
④ 必然的な存在者(神)は実在するのか
上記のうちの3番目のアンティノミーが百丈野狐と同じ問題をテーマにしたものです。そのテーゼとアンチテーゼを中山元先生の訳で以下に引用します。
(テーゼ) 自然法則に基づいた因果関係が、世界の現象の全体を説明できる唯一の因果関係ではない。現象を説明するためには、自由(意志)に基づいた因果関係についても想定する必要がある。
(アンチテーゼ) 自由(意志)というものは存在せず、世界ではすべてが自然法則によって生起する。
テーゼが不落因果、アンチテーゼが不昧因果に相当するものと考えれば、これはまさに「百丈野狐」の公案でしょう。ちなみに、カントは他の三つのアンティノミーについてはテーゼもアンチテーゼもともに否定的に考えていましたが、この第3アンティノミーについてだけは肯定的にとらえていたようです。
≪このようにして自由と必然は、同じ行為について、それを叡智的な原因と比較するか(その時行為者は自由である)、感性的な原因と比較するか(その時行為者は自然の法則にしたがう)によって、いかなる矛盾もなく、その本来の意味において両立するのである。≫(純粋理性批判第2版569頁=中山元訳「純粋理性批判5 P.248)
正直に告白すると、2年前から純粋理性批判の同じところを何度も読んでいるのですが、第3アンティノミーについては今のところカントの思索を克明にたどるには至っておりません。今回は禅仏教と西洋哲学が同じ課題に重要な関心を持っていたことを紹介するにとどめたいと思います。
(参考 ==> 「公案インデックス」)