禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

正義の怖さ

2016-07-21 12:33:40 | 雑感

仏教では「不変のものはない」と説く。だから、あらゆる固定観念、イデアルなものは否定する。究極的な真・善・美なるものも無いわけである。固定的な足場がない以上、絶対的正義というのもまたあり得ない、というのが仏教の立場である。だから、仏教の内部においては本来争い事はないはずである。

善光寺では、大貫主がセクハラをしたとかしないとかでもめているらしいが、修行を積んだはずの人が争いの渦中にいるということがまず問題である。さらに、白黒をつけるために裁判所に訴えるに至っては、情けないというしかない。「生き仏様」と称されるほどの高僧であれば、世俗の法の裁定を求めるような仕儀に至ることは考えられない。もはやそこにはすでに仏教は存在しないと見るべきだろう。
テレビカメラの前で昂然と相手を批判する、その同じ人が善男善女の頭を数珠で撫ぜる。その行為にどのような意義があろう。

人は誰も自分が正義であることを訴え、相手をあしざまに言う。そこに既に独断と執着が生じているのである。「盗人にも三分の理」という言葉があるが、どのような立場にもそれなりの言い分がある、ということを表現したものである。仏教的ものの見方を俗っぽく方便として表している。己の立場に固執することなく、相手の言い分に耳を傾け、なんとか合意できる着地点を探らなくてはならない、それが仏教の教えである。時には全面的に相手に譲歩する、「負けるが勝ち」というのも仏教的方便であろう。仏教の寛容性とは、絶対の正義は存在しないという根本理念から出てくるのである。

そういう意味において、日本国憲法の第9条は仏教精神そのものの結実であると言える。いかなる戦争も正義の名分をもって行われる。過去に「正義の戦争」でない戦争はなかったのである。先の大戦で日本人は、最も愚劣な平和であってもいかなる戦争よりも勝る、ということを学んだ。

最近は自虐史観という言葉をよく聞く。「南京大虐殺はなかった」、「従軍慰安婦の強制連行はなかった」、「日本のお陰で西洋列強の植民地支配から免れた」などということを言うのだが、だから聖戦であったとでも言いたいのであろうか。戦争に大義名分を与えようという発想自体が、ちょっとピントがずれている。少なくとも一千万人の中国人が死んだ。そのほか死ぬよりつらい悲劇も数知れずあったことは想像に難くない。もし、日本に本当の仏教精神が根付いていれば、それらのことは避けられたかもしれないのである。

日本国憲法がアメリカからの押し付け憲法であった、というようなことがよく言われる。確かにそれはそうかもしれない。しかし、第9条に限って言えば、当時の国民の総意に基づいていたと言っても差し支えない。日本人は、国民国家の枠を超えて、世界市民として平和を希求する。そのような決意があったことは間違いないのである。

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