実存とは「現実存在」のことである。端的に言えば、私が今現実にここにこうしていることである。
それがどうして不安なのか?
不安など感じたこともないという人もいるかもしれない。そうであれば、それはそれで素晴らしいことでありなにも問題は無いが、大抵の人はこの大宇宙にただ一人取り残されているような感覚に襲われたことがあるのではないかと想像している。他人の心の内は分からないので、それはあくまで私の想像でしかないが、‥‥。
とにかく私は子供の頃はとても怖がり屋であった。毎晩眠る前に恐ろしい妄想にとらわれるのが常であった。障子を開けるとその外には何もなく、私はこの部屋とともに一人だけこの世界に取り残されているのではないだろうか? 天井を眺めていると、木目がぐにゃりと渦を巻き、そこから鬼が出て来て私を地獄へ引きずり込むのではないか?
嘘をついたり、邪なことを考えたりしたりすると地獄に落ちる、そして舌を抜かれたり、針の山を歩かされたりするというような話を聞いた。おばあちゃんが「哲はええ子やからそんな心配せぇでもええんやで」と言ってくれたが、嘘や邪なことについては身に覚えがあり過ぎた私は心配しない訳にはいかなかったのである。
こどもの頃は経験がない、だからこの世界の安定性に対する信頼が持てないのである。この「世界の安定性」というのは、例えば、歩いている時に常に足の下に大地があると信じられるというようなことである。大人になれば子どもの頃のような荒唐無稽な妄想はあまりしなくなる。それはいわゆる慣れというものだろう。歩いている時に、次の一歩を降ろす位置に大地がないかも知れないと心配する人はあまりいない。盤石の大地はこれまでの自分の信頼を裏切ることがなかったからである。そんなわけで、私達は毎日を概ね無難に過ごしている。
では、なにも心配することなど無いのではないのか? 宇宙のことを英語では「cosmos」と言う。語源はギリシャ語の kosmos で、秩序を意味する言葉である。この宇宙がその語義通りであれば、科学以外の「信仰」など必要ない。われわれはひたすら科学的因果関係だけを問題にしておればよい、というかそれ以外の道はないのである。
しかし、いくら科学が進歩しても、哲学的には巨大な問題が取り残されたままになることが分かっている。科学というのは経験から法則を帰納していくだけの作業に過ぎない。そもそもの宇宙の秩序の根拠がなんであるかということは射程の外である。早い話、万有引力の法則が正しいと言ってもそれは単に過去の実績であるに過ぎない。これからも未来永劫に万有引力の法則が有効であるという論理的根拠・保証はどこにもない。「なぜ世界はこのようであるのか?」、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」 、「なぜ私は私なのか?」などという根源的な問いはなにひとつ解決される見込みはないのである。よくよく考えてみれば、幼い頃に恐怖した妄想の類が実際に起きうる論理的可能性が、依然として否定されてはいないことに気が付くのである。この世界がこのようであること、あるいは私が私であること、その事の必然的根拠が見いだせない。この私の存在は偶然性のさなかにさらされている。その事にあらためて気がつく、それが実存の不安である。
私たちの理性はあらゆることの論理的根拠を求める。ないはずのものを求めているのであるから、実はこれは理性の暴走である。「なぜ世界はこのようであるのか?」、「なぜ私は私なのか?」、これらのことには理由などない。世界がこのようであること、私は私であるということ、現実はここから始まっているのである。答えのない問題は実は理性が作り出した疑似問題である。釈尊は疑似問題に対しては何も答えられなかった。そのことを無記と言う。仏教における重要な概念である。
明け方の月と富士 (横浜市港南区)