現象学と言えば哲学に詳しい方ならばすぐにフッサールの超越論的現象学を思い浮かべるだろうが、もともとは事象そのものをありのままに記述しようという哲学的な運動のことらしい。「事象そのものをありのままに記述」するためにはものごとを偏見無くありのままに見つめなくてはならない。この「偏見無く」ということがとてつもなく難しい。「私には偏見などない。」と胸を張る人がいるかもしれないが、哲学が要求する「偏見無し」というのはもっと厳しいのである。
例えばあなたがカルチャーセンターへ現象学の講義を受けているとしよう。先生はカバンからおいしそうなリンゴを取り出して机の上に載せる。そこで先生は「今、『机の上にリンゴがある』という命題(言明)は正しいでしょうか?」とあなたにに問いかける。そこであなたは当然「正しいです。」と答える。そうすると先生は「では、このリンゴをまわしますので一人一人手にとって確認してください」と言う。そして、実際にそれを手にしてみると、実際のリンゴの感触とは全然違う。それは陶器で出来たリンゴの模型だった。つまり、「机の上にリンゴがある」という命題は偽である。
誰だってそんな勘違いがある。そんな些細な錯覚を偏見だというのは言い過ぎではないかと言いたくなるのも尤もである。大抵の人はその陶器で出来たリンゴの模型を本物のリンゴであると勘違いするのである。しかし結果として、「机の上にリンゴがある」という言明が間違っているということも事実である。ここで言いたいのは、私達は今までに経験によって構成された世界観にものごとを当て嵌めて解釈しようとする傾向があるということである。強調したいのは「構成された世界観」ということである。あくまでそれは構成されたものであって本物ではないということなのだ。
その構成要素としての経験には科学的知識なども含まれる。その膨大な知識体系により、私達は何時の間にか「リンゴがそこにあるから、反射された可視光が視神経を刺激して赤くて丸いものが見える。」というふうな偏見に満ちた考えをもつにいたるのである。というと、あなたは「それのどこが偏見なのだそれは事実ではないのか?」と言いたくなるに違いない。経験的に得られた知識に当て嵌めて考えている時点で、現象学的には既に偏見にまみれているのである。あなたはいつの間にか科学的知識によって「リンゴがあるから赤くて丸いものが見える」と考えているが、それは事実ではない。本当のところは逆なのである、「赤くて丸いものが見えているから、そこにリンゴがあると想定している」のである。あくまで「リンゴがそこにある」と言うのは想定であって事実ではない。あくまで事実は「赤くて丸いものが見える」ことだけである。この時「赤くて丸いものが見える」ことを哲学用語では「直観」という。
現象学ではまずこの直観したものこそが始原的事実であるという考えから始まるのである。実は禅においてもこれと同じことが言えるのである。禅においては『あるがまま』の世界を受け入れよとよく言われる。思惟するということは既成の知識体系にものごとを当て嵌めることに通じるから無念無想というのである。不立文字というのも同様である。言葉にするという行為自体がものごとを既成概念に沿って処理しているということだからである。言葉にしたことはすべて間違っていると言っても言い過ぎではないのである。しかし、その辺の消息を伝えようとしてもわれわれには言葉しかないわけだから、説明が余計回りくどくなりその結果、不立文字を標榜する禅の書籍の量は他宗を圧するような結果になっている。結局最後には一切皆空で結ぶしかないところに落ち着くのにはそういう事情がある。
雨の日に坐禅をしていると、指導僧に「雨音と一体になれ」というようなことを言われるかもしれない。そのうちに指導僧の言った言葉を理解するようになる。その時あなたは雨の音だけを直観していて、他にはなにごとも考えていないのである。禅者はそのような訓練を繰り返し、偏見を排除した素朴な世界の妙を感得するのである。
(つづく)