禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

思いを言葉にする。思いが言葉に引きずられてはならない。

2021-12-09 10:25:57 | 雑感
 先日(12/7)のNHKの「プロフェッショナル/仕事の流儀」という番組を見たら、俳句の夏井いつき先生が次のようなことを仰っていた。

≪ 自分の為に俳句を書くんだから、俳句の為に自分の思いをゆがめるのは違うと思う。頭で空想で作ってると、かっこいい言葉みつけたから、じゃ本当はこっち表現したかったんだけど、でも かっこいい言葉見つかったから、いやいいやそっちでもとかって、最初の思いを捨てて言葉のほうに酔ってしまう。心が無かったら言葉さがしてもしょうがないから‥‥‥ ≫
 
 身につまされる言葉である。このようなことは俳句に限らず、ブログを書く場合にも心掛けておかなければならないことである。私たちは言葉で考えるからである。哲学の場合はなかなか自分の思いにフィットする言葉がなかなか出てこない場合がままある。そんな時、「かっこいい言葉」と言うほどのものではないが、何となくおさまりの良い気の利いた言い回しに逃げたくなる。いったん言葉にするとなんとなく分かったつもりになるが、実は分かっていない、思考が言葉に引きずられているのである。結局、出来上がった文章は初めに思い描いていたものとは着地点が全然違うものになる。
 要するにわかってないのである。虚心坦懐に自分の内面を振り返ってみる必要がある。「心がなかったら言葉さがしてもしょうがない」のである。まずは心を見定めなくてはならないのだろう。
 
今朝(12/9) 午前7時の富士山   昨日の降雪で雪線が大分下に下りてきた。
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