時々妻から見た夢の話を聞かされる。「私は箱根に行ったのだけれど、そこは見た事も聞いたこともない不思議な場所なのよ。それでね、私の幼馴染の○○ちゃんと、学生時代の友人の××さんとが縄跳びしていてね‥‥、ね、面白いでしょ。」 聞かされている私は面白くもなんともないのである。一般に、夢は見た本人にとってはとても不思議で奇妙なものであるが、なかなかその不思議な奇妙さというものが他人に伝わりにくい。この不思議感が他人にも伝わるように文章で表現出来たら、一流の作家にもなれるような気がする。
日本語では将来の夢も寝床の中で見る夢もともに「夢」だが、英語だと前者はdream 後者はnightmare と別の言葉になっている。これは興味深いことである。昔の日本人にとって将来の「夢を語る」という様なことは、文字通り夢物語で nightmare のごとく儚い行為であったのかもしれない。日本では長い間封建制度が続いてきために、dream もnightmareもどちらも現実とはかけ離れたものとして、同じ概念の中に閉じ込められてきたということか。大多数の庶民は、奴隷的な身分制度の中に固定され続けてきたということなのかもしれない。だとすると、将来は dream に対応する日本語が生まれてくるのかもしれない。
日本語では将来の夢も寝床の中で見る夢もともに「夢」だが、英語だと前者はdream 後者はnightmare と別の言葉になっている。これは興味深いことである。昔の日本人にとって将来の「夢を語る」という様なことは、文字通り夢物語で nightmare のごとく儚い行為であったのかもしれない。日本では長い間封建制度が続いてきために、dream もnightmareもどちらも現実とはかけ離れたものとして、同じ概念の中に閉じ込められてきたということか。大多数の庶民は、奴隷的な身分制度の中に固定され続けてきたということなのかもしれない。だとすると、将来は dream に対応する日本語が生まれてくるのかもしれない。
さて、本日はクリスマスであるが、このところ毎年クリスマスになると毎年悪夢のようによみがえる思い出がある。4年前の今頃は妻とともにアメリカのシアトルに住む息子の家で過ごしていた。それで、クリスマスの街の様子はどのようなものかと思い、妻と二人でダウンタウンに出かけたのであるが、アメリカのクリスマスというのは半世紀前の日本と同じで、営業している店というのはほとんどない。マーケットは全面的に閉鎖されているし、そこで自然的欲求が催してくると非常に困った状態になる。絶望的な思いでトイレを探しまわった記憶が今も鮮明に脳裏にこびりついている。
ことの顛末はこちらをクリック==>「クリスマス・デイの街角」
かつての悪夢も今では笑い話になっているのが救いである。
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