「仏教ではすべては無常だというけれど、常に無常だというのなら、それは有常ではないですか?」というようなことをときどき耳にします。一見、その言い分にも一理ありそうです。しかし、少々誤解があります。仏教が無常を主張するのは、われわれの思考が固定的だからなのです。思考は概念の操作のことですが、概念つまり言葉はいつも固定的です。言葉が固定的であること、これを哲学的には反復可能性と言います。反復とは同じものが繰り返すことです。「同じ」ということがあって違う(差異)ということがあります。反復(同じ)と差異(違う)は比較によって成立します。つまり、思考の根源には比較による識別というものがあるのです。論理学では二つの大きな法則があります。"A=A"という同一律と"A ≠ notA" という無矛盾律です。私たちの思考はこの二つの原則の上に成り立っているのです。
ところが仏教では、比較というものを否定します。厳密に同じものというものはどこにもないからです。あらゆるものが常にダイナミックに変化しているので、そこには特定の個物というものもあり得ない。"A=A"という同一律は不変の“A“を前提としているが、固定的な“A“は実はありえない。どんなものも常に変わり続けているので、Aは次の瞬間には非Aとなっている。
目の前に山があると仮定しましょう。その山は絶えず変化し続けている、ということは納得していただけると思います。雨や風にさらされれば、少しずつ表土が削られていきます。全体から見れば微小な変化かもしれないけれど、確実に山は変化し続けています。「多少変化したところで、山は山としての本質(自性)を保っているではないか。」とあなたは言うでしょう。確かに1年や2年では大した変化はないでしょう。しかし、百万年か千万年経ったらどうでしょうか? たぶん地形はずいぶん変わっていて、山が無くなっていることも考えられるはずです。問題は、その山が山でなくなる時、その山は山としての本質を失うことになりますが、それはいつか?ということです。山が山でなくなる境界、おそらくそんなものはないはずです。つまり、山が山である本質などというものはない、というのが仏教における見解です。「山は山に非ず、是を山と名づく」ということです。
人は一人一人みな違うが、それでもそれぞれの人が人であるということが分かるのはなぜか? それは、人間のイデアというものがあるからだとプラトンは言います。言うなればそれは神が描いた人間の設計図、つまり人間の本質であります。「~のイデア」が(形而上の領域に)実在するというような考え方をプラトニズム(プラトン主義)と言います。が、仏教はプラトニズムとは真っ向から対立します。もし、人間のイデアというものがあるのなら、人間と人間以外の境界は客観的に分かるはずです。誰もがゴリラは人間ではないと言うでしょう。しかし、人間とゴリラは共通の祖先を持ちます。その共通の祖先と人間の間にはたくさんの世代があると考えられますが、最初の人間は人間以外から生まれたと考えられます。では、人間と人間以外の境界はどのように惹かれるでしょうか? そもし人間のイデアが実在するのであれば、その境界は客観的に決まるはずですが、そんなことはありえないと思います。あえて境界を設けるなら、必ずそれは恣意的なものにならざるを得ないはずです。
無常の世界の中では、自性を持った個物というものはありえない。一見、個物として見えるものも比較的安定したパターンのようなものに過ぎない。すべては過渡的で偶然的で、完成形とか理想形というものもない。あるとすればそれは観念の中にしかないのである。したがって、御坊哲というようなものも個物として確定的に実在するものではない。仔細に見れば、常に変化し続けている複雑な渦のようなものである。その複雑な渦がシステマティックで比較的安定しているため、さも御坊哲が実在しているかのように見える。しかし、御坊哲の本質・自性というものは実はどこにも存在しない。いずれ、それは跡形もなくなる宿命のものである。「一切皆空」というのはそういう意味である。
さて、「常に無常だというのなら、それは有常ではないか?」という問題に立ち還ると、それはその通りなのである。言葉というのは抽象概念であるから、必ず固定的にならざるを得ない。しかし、仏教は固定的ということを否定するわけだから、言語・概念そのものを否定しているわけである。しかし、何かを表現するには言語を使用するしかないわけで、結局、無常というのも仮の方便でしかないということになる。「空もまた空なり」ということになる。
鎌倉 長谷寺(本文とは関係ありません。)