「鳥が飛んでいる」と言ってみると、何かが言えたような気がする。聞いた方も確かになんらかの意味を受け取ったような気がする。しかし、言った本人は、トンビが螺旋を描きながら高く舞い上がっている光景を見ていたのだが、それを聞いた人は雀が枝から枝へ飛んでいる様子を思い浮かべていたのだ。
龍樹は、「一般的な鳥というものは存在しない」し「一般的な飛び方というものも存在しない」と言う。だったら、言語が通じていると思うのは一種の錯覚だろう。
受け手は聞いた言葉から自分の経験を想起しているのだが、それは発語者の意図と受けて自身の想起は全く無関係である。受け手はその言葉から独自に自分自身の経験からイメージを想起するのである。発語と受け手の解釈は明らかに断絶している。
私の観ている赤色は実はあなたの緑色かもしれないというようなことはよく言われることである。しかし、最近の言語哲学ではそんなことを言うのは無意味であるということになっている。
夕日を恋人と眺めながら、あなたは「夕日が赤いね」と言う。恋人は答えて、「そうね本当に赤いわね」と答える。素朴に考えて、この時二人は同じ「赤」を見ていたのである。「赤」という言葉の意味はそういうことだったはずだ。「赤」という言葉に関する二人の振る舞いを見ているかぎりいかなる齟齬も見られない。二人の間に「赤」の同一性を疑わせる要因はどこにもない。
現代言語学では、「赤」という言葉には赤と赤以外を区別する機能しかないという。つまり、「赤」はこの世界を赤と赤以外に分節する。言葉の内容そのものは問題にされていない。あなたと彼女の「赤」の同一性の根拠となるのは、あなたと彼女が持つ、それぞれの分節された言語空間の同型性にしかないのである。ここでは、あなたの意識の中にある赤のクォリアというものは全然問題にされていない。
ここで、私は言いたくなるのである。あなたが「赤」という時、「あなただけが感じることのできる赤の感覚を指示」しているのではないだろうか? また彼女も「赤」という言葉を聞いた時、「彼女だけが感じることのできる赤の感覚を想起」しているのではなかろうか? 実は言葉は通じていない。言語空間の同型性から奇跡的に現象的には通じているように見える、ということもできそうな気がするのである。
「言語というのはすべて私的言語しかない」という言い方はできないだろうか?
このアジサイの映像を言葉で切り取ることができるか?
もし差し支え無ければ、貴ブログの記事を問題の題材として引用させて頂いても良いでしょうか、
こちらにお返事頂ければ幸いです。
私の方は全然かまいませんが、私の日本語でよろしいのでしょうか?
最近になって貴ブログを知りました。
興味深い記事ばかりですね!
>実は言葉は通じていない。言語空間の同型性から奇跡的に現象的には通じているように見える、ということもできそうな気がするのである。
>「言語というのはすべて私的言語しかない」という言い方はできないだろうか?
とお書きになりましたが、考察に一石を投じる意味で、自分の解釈を読んでいただけませんか。
実は、言葉は通じています。
というか、それこそが言葉の本質・本分・役割なのではないでしょうか。
ある現象(の認知)について意思疎通をはかる時に、前提となる共通概念が無いと
「あの山は綺麗な緑だね」
「そうだね今日は真っ黒だね」
「どこの山の話?」
「君の顔の真ん中のやつでしょ??」
のように根本的に意思疎通ができません。
この共通概念の必要性から、言葉という物が生まれたと、
あの盛り上がりを"山と名づく"必要があったのではと想像します。
>言語というのはすべて私的言語
これは完全にそうだと思います。でも同時に言葉は完全に中身のない、
完全なインターフェイスの役割を果たしているからこそ成り立つのかなと思います。
もし言葉が真実を示す道具だとしたら、
毎瞬毎瞬、話し相手の言葉が表す、相手の全人生記憶から構成される
複雑なニュアンスの対象をつぶさに受け取る事になり、思考が成り立たない
のでは?と思ったり(笑)
「あの山は綺麗な緑だね」
「あれは山じゃないし、綺麗の基準が少しずれてて、緑色ってのはもっとこう・・」
アジサイの映像については、言葉で言い尽くせないまさにそれそのものであるがゆえに、
どんなテーマでも会話できる、無限に言葉を生み出せる、そう思いました。
乱文すみません。。
初コメントを有難うございます。
共通概念としての「意味」がなんであるかと言いだすと結構難しい話になると思います。(が、専門家はもう既に論じつくしていると思います。)
基本的には、九太郎さんと私は同じような言語観を持っているのではないでしょうか。