インターネットのSNS上で「空」について議論しているところがあったので、のぞいてみると次のような文言が目に留まった。
≪ あるとないとは同じことだと、仏教は言います。論理的には同じだと。だから、はじめから空なのだと。≫
この人にはこの人の言いたいことがあるのだろうが、「論理的」には明らかに間違っている。論理というものはあるとないの区別があるところに基盤があるのであって、その区別がないのなら論理の依って立つところはないのである。” 1=0 "を矛盾と言う。矛盾を一つでも許せば、その論理体系は無意味なものとなってしまう。
一部の人々は仏教を神秘的に語りたがる傾向がある。「あるとないとは同じ」というのは味噌も糞も同じと言うに等しい。あまりに大胆な物言いは、仏教を情緒的に解釈しているからではないだろうか、宗教が情緒的であっては良くないという意味ではないが、仏教における哲理というものはアバウトに語るような性質ではないと考える。一切皆空を「すべては空しい」というようなニュアンスで語るのもいかがなものかと思う。「すべてはまぼろしのようなものだから執着する必要はない。」というのもどうだろう? 「執着しない」ということは重要であるが、ありありとした現実を認識しながら、それをまぼろしであるかのごとく語るのはどう考えてもおかしい。
仏教はごまかしの宗教ではない。この世界はリアルである。悲しいものは悲しい、苦しいものは苦しい。それでも執着してはならないと説くのが仏教ではないかと思う。喜びも悲しみもうつろなものと受け止めるのは単なる病気、離人症かもしれない。
大船撮影所跡 (鎌倉市)
「論理的には明らかに間違っている」という以下の文章はお坊哲さん自身の意見ですか?
それとも或るSNS上での筆者の主張?
もう一つ、「あるとないとは同じことだと、仏教は言います。」という言葉ですが、おそらく仏教はそんなことは言っていない。意味的にも間違っていると思います。
御坊哲さんの5月17日の記事で「有るとないとは同じ事?」で、
御坊哲さんが、あるとないのは同じ事かもと言う幻想に駆られ、奥さんからあなたの頭大丈夫?といぶかしがられたと言う逸話が私の頭に残っていたので混乱してしまいました。
もっとも仏教ではあるといってもいけず、無いと言ってもいけない(あるのでもない、ないのでも無言って)と言う表現法が表記されているようなので、論理性から言うと経典も奇妙なことをいっている感があるようなないようなわけで。
日常的常識的な悲しみ(現象)はリアルか、幻か、どちらでもいいのではないでしょうか。仏教にとってはそれらは原因と縁と結果による自性なき現象であり、その背後に本質なんて想定していませんから…。
離人症とは「自我がある」という前提下におけるトラブルであり、最終解脱した阿羅漢の状態とは違うでしょうね。むしろ離人症なんて生ぬるい、という状態ではないでしょうか。だけどそれは自我ありの勘違い状態や離人症みたいな病気ではなく、あらゆる精神的な病がなくなった状態ですね。
まあ病気が一掃されるとまともな在家生活はできなくなるのですが。しかし極端な例ですが「人肉喰い」の可能性は絶たれています。モラルの完成です。自称モラリストの普通人とは物が違うのです。
阿羅漢には輪廻転生がなくなります。普通人には輪廻があります。渇愛がしっかり残っている人は死ぬ時に「輪廻なし」を選択することが得策ではなくなります。悪い人なら自分がいかに土壇場で損をするかに気付くことでしょう。自分をいたわることが最良の選択です。「幻のように見なさい(安静にしてください)」と自分に語りかけている人が良い所に生まれます。それは命を拾うかもしれない可能性を最も大きくさせる選択とも言えます。普通人にとってそれ以上の死にまつわる心得はないと思います。そして悪い自分よりもいたわり甲斐のある自分に語りかける方が幸せなはずです。
「人生」は渇愛にまつわる物語でありリアルでり、それらは無常です。
どちらでもいいかどうかわかりませんが、リアルなものはリアルだと思います。わが子が死んでも悲しくないなどと言う人はいません。嘆き悲しむのが人間というものでしょう。釈尊は嘆きにおぼれてはいけないと言いますが、嘆いてはならないなどと言うはずがないと思います。
羅漢というものがどういうものか私にはわかりませんが、羅漢になれば悲しみもないというようなものであれば、私は羅漢にはなりたくないと思います。
悲しみも喜びも一切は空であります。しかし、空はまぼろしという意味ではないでしょう。現実はあくまでありありとした現実であります。
空は概念の解体、言葉による観念の固定を否定することにあります。
人間が悲しみを持たない世界は不気味に決まっています。
しかし阿羅漢が仏教の完成形であり、釈尊こそが徹底した阿羅漢であることに変わりはありません。
人間社会から悲しみが根絶されることは考えづらいですが、悲しみ(実態は怒り)が生み出す弊害の取り返しのつかない拡大を考慮すれば仏教においては悲しみ自体が肯定されることはありません(悲しみの禁止という不可能でキテレツな話とは違います)。
確かにこの世に存在するものはリアル過ぎてコンクリートの壁を殴る気にはなれません。しかし私も壁も一瞬として同じ姿を保っていませんし、いつか私は死んで壁も壊れます。やはり儚いリアルです。
姪っ子が桜と春の陽気に見送られて一年生になった時、昔のような大人による子供に対する俗物的な体罰や精神的圧迫がもはや存在しないことに、学校の変化に心から感謝しました。昔の心ある親達がどんな気持ちで春に子供を見送ったかを考えると泣けてきました(社会や学校は子供のためにも親や先生のためにも常に改善されるべきです)。子供が死んでも死ななくても子供にまつわる悲しみからは逃げられないものです。そして子供が次の時代の子供のことでまた悲しまなければいけないことも見逃せません。彼らを重圧から救う隠れた切り札となり得るのはこれからも仏教です。日本人のモラルの根底には仏教的な諦念が善的に浸透しているものです。その諦念をやはり善的に喚起するのです。
痛ましい世の中で痛ましい事件が起きるのが未来の姿です。そこで結局のところ仏教が問うのは感情に飲み込まれるのではなく「そこまで悲しむな」と他人や自分をいたわれる人間であるかです。結局本当に未来の人と共有する価値があるのはそれです。
世の中はあだに儚きものなりと教えて帰る子はほとけなり
人が本当に他人と共有したいのは、悲しみではなく心の解放のはずです。
前の記事及びコメント欄にあった、「ニヒルな宇宙を肯定」したいという気持ちは私の場合はありません。世界に次の朝が来ない可能性がある、という諦念の果ての「朝の絶妙な光」にもあくまで厳密な価値は見いだすことができないのです。
どこかにいるかもしれない「朝の光にさえ怯える人」にとってその光も無責任なものです。その認識に加えて、しょせんは怯えるあなたも無責任な存在です、と言うことが怯えからの救いの道になり得るのです。
私がもはや死から逃れられなくなった時は、あらゆる執着や恐れは「どれもこれもあなたの本音ではありません」と自分に言って死に向かうでしょう。その時自分に語りかける自分は安静になっているのです。人生も幻ですが、死や闇などもしょせん「執着」に基づく、べたついた黒い幻です。宇宙から脱出する目標を設定しながら自らの執着を見極める姿勢こそが真の「道」です。
「死ぬ時も闇を払って歩いていく」。そこに私の脳裏に浮かぶ人々に対する誠意の一切も現れているのです。
生まれたばかりの赤ん坊はこれらのことが分かるかもしれませんね。