「我思う、ゆえに我あり。」というのは誰でも知っているデカルトの言葉である。が、どうもこの言葉が誤解されているような気がしてならない。
デカルトは徹底した懐疑を通じて、「我あり」に到達したのであるが、どういうわけかこの「我あり」を確実な知識のベースであると解釈する人がいる。西洋の思想は、このデカルトの「我あり」から出発して、ロジカルで機械論的な世界観をつくりあげた、と考える人が少なからずいる。しかし、これは大きな間違いである。
実は、方法的懐疑を徹底すると「我あり」から抜け出ることはできない。一歩踏み出そうとしても、底知れぬ懐疑に足を取られてしまう。西洋の近代哲学はずっとデカルトの遺産であるこの『懐疑』と格闘し続けており、それは今も継続している。デカルトが近代西洋哲学の父と称されるのは、機械論的世界観を打ち立てたからではなく、それまでだれも試みようとしなかった「哲学的懐疑」によって、問題のありかを明らかにしたからに他ならない。
論理的に考えてみるなら、「我思う」が「我あり」に先だってあるわけはない。趙州従諗ならば、おそらく「無」とだけ言う。維摩居士ならば、何も言わない。しかし、デカルトは「我思う」と口にしてしまった。
禅的視座から見れば、「我思う」の『我』は文法上の形式的な主語に過ぎないということになる。「我思う」とあえて言葉にしてみたものの、その「我」の内容は空疎なのである。もし何らかの所与性を表現したいのならば、「我」より「世界」という言葉を使用した方が良いだろう。
「世界が思う、世界あり」 この方がまだ良い。『ゆえに』もないほうが良いだろう。
デカルトの『我』はとうてい確実な知識のペースとはなりえない。「我」と機械論的世界観との間には論理的な飛躍がある。結局デカルトは神の存在証明という超越を取り入れてしまうことになったのも当然の成り行きであった。
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