仏教では、すべては無常であり、現実の世界の中に固定的なものは一切ないと説く。究極の真・善・美を追求するプラトニズムとは対極の立場である。当然、普遍的な善悪の概念も認めない。すべては縁起の中に生じる仮象に過ぎないと見るのである。しかし、善悪がなければ倫理も無い訳で、それで仏教は宗教だと言えるのだろうか? それでは単なるニヒリズムではないのかという疑問がわくのも当然である。
キリスト教徒なら話は簡単である。モーゼの十戒のようにロゴス(言葉)による倫理規定が存在するので、信者は戸惑うことはない。すべて神の意志に従っておればよい。しかし、仏教徒の生きる世界はあくまでリアルな世界である。現実の世界は無常である。この無常の世界を差配する超越的なものは存在しない。普遍的な善悪というものを教えてくれるものは原理的に存在しえないのである。
仏教型の宗教と大きく違うのは、神に従って生きるのではなく、自ら主体的に生き方を模索する、つまり悟りを求めるという所にある。釈尊はまず我執を捨てよと説く。我々はつい固定的な「自己」というものがあるかのように錯覚する。思考することによって主客二元の世界を構成してしまうのである。その虚構である自己に執着することにより我執が生まれるのである。仏道修行により、その「自己」が錯覚であることを知り、我執から解き放たれれば自在の境地が得られる。我執がなければ、そこにはもう他者への共感しか残らない。対立のない世界が実現するというわけである。
我執がなければ余計なはからいもない、そういう一点の曇りもない境地に至れば大円鏡智が働くと言われる。世界をありのまま正しく映す鏡のような境地に至れば、判断を間違えることはないというわけである。
しかし、ここで一つの疑問が起こる。仏教が無常を根本原理としているのなら、大円鏡智といういわば理想的なものが実在するだろうか、という疑問である。イデアルなものは現実には存在しない、というのが仏教の見解ではなかっただろうか。だとしたら、大円鏡智は到達しえない永遠の目標と解釈すべきだろう。
高校の日本史で血盟団事件というのを習ったのをご記憶だろうか。井上日召という日蓮宗の僧侶が、「一人一殺」をスローガンに政財界の重要人物を暗殺しようとしたテロ事件である。その事件の裁判で、臨済宗の最高指導者である山本玄峰老師が首謀者である井上日照の弁護側証言で次のように述べたのである。
≪第一、井上昭(日召)は、長年、精神修養をしているが、その中でもっとも宗教中の本体とする自己本来の面目、本心自在、すなわち仏教でいう大圓鏡智を端的に悟道している ‥‥‥ 和合を破り、国家国体に害を及ぼすものは、たとえ善人といわれるとも、殺しても罪はない、と仏は言う。 ‥‥‥≫
この陳述の中に「大圓鏡智を端的に悟道」という言葉がある。簡単にそんなことを言ってよいものだろうか? 当時の新聞の見出しには「仏法の真諦を説き 日召の悟道喝破」とあり、多くの人々が感銘を受けたようである。しかし今の時代からみると、山本老師の言葉はかなり不穏当な印象を受ける。
大圓鏡智というからには、山本老師は井上日召の行為を「私心なき行為」として称揚したのだろう。しかし、そもそも「国家国体」に執着している時点で、釈尊の教えからは逸脱しているように私には思える。一切皆空というなら国家国体もまた空であり、執着してはならないものである。大圓鏡智もまた空である。間違いはそれを実体視したことにある。
血盟団事件は五・一五や二・二六の遠因ともいえる事件であった。それらのテロをとおして、日本が軍国主義への傾斜を一層強めたことを考えれば、決して肯定されてはならないことである。自己犠牲が直ちに美しい行為であるとみなすのは間違っている。あえてそれを弁護するなら、仏教はカルトであると言われても仕方ないだろう。「魂を救済する」目的でサリンをまいたオーム真理教と何ら変わるところはない。道徳法則を導出する原理を持たない仏教はニヒリズムと紙一重のところにある。不殺生戒はリスク回避のための歯止めとして釈尊が設けたのである。仏弟子ならばそれを軽視してはならない。
仏教の真諦は執着しないところにあるのである。執着がなければ対立も無い。独断に陥ったときはいつでも一切皆空の原点に立ち戻る必要がある。現実の世界においては反省的均衡の中にこそ中庸があると見るべきだろう。我々は究極の地点に安住することはできないのである。
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