前回取り上げた南直哉さんの「よく言うよ」の記事の中で、ちょっと引っかかる表現があったので、少し注文を付けておきたい。問題となるのは次の表現である。
≪ 鈴木の『即非の論理』は、とどのつまり、主体と客体が未分の状態(Aと非Aの同一)、つまり『見性』的状態を理屈っぽく言い換えたものに過ぎない。 ≫
主客未分の状態に至ること、それが悟りであるかのように誤解されているが、そうではない。我々は普段から通常は主客未分の状態なのである。なぜなら、「主」というものを私の意識とするなら、私の意識にあるものは「客」ばかりであって、「主」たる私の意識はそこにないからである。
綿密に自分の意識の中を見渡せば、主客の主は実はどこにも見当たらない。一体、主客の二項対立というものはどこから来たのだろう。おそらく心理学者の言うように鏡像の時代を経て、自分も隣の家の次郎君と同じような人間であると知るようになる。つまりここで、推論による「世界」の構成が行われているのである。ここで問題なのは、自分自身を相対化して次郎君と同じような、この世界の中の一点景として見ていることである。つまり、本来「主」としていたはずのものがいつの間にか「客」として客観世界の中に取り込まれている。
西田はこの問題を『自覚に於る直観と反省』という論文の中で、「英国にいて英国の完全な地図を描く」と言う哲学的な問題として取り上げている。
ここで言う完全な地図とは、あらゆる要素を一定の縮尺率で書きこんだものと言う意味である。例えば家一軒々々はおろか、もっと微細なものまですべてが記されているそんな地図である。もちろんそんなものは実現不可能であるが、あくまで思考実験として考えてみるのである。
この地図が例えばどこかの大きな広場で描かれていたとする。と、「英国にいて」とあるので、この広場自体も地図上に記載されていなければならない。ならば当然、この地図そのものもこの地図上に記載されねばならない。
勘のいい方はもうお分かりだと思うが、地図の中の地図にもこの地図が記載されていなくてはならない。というわけで、地図の中の地図の中の地図の中の地図の中の‥‥、というわけで無限に循環してしまう。
このことがなぜ哲学で論じられるのかと言うと、自分が自分を認識できるのかという問題と重なるからである。
仏教においては、認識できる「自己」というものは錯覚に過ぎない。釈尊はそのような「自己」に執着してはならない、と説くのである。悟りとはそのような「自己」は存在しないと腹の底から納得することである。
であるから、「主体と客体が未分の状態」は通常の状態であり、「Aと非Aの同一」(無分別の状態)とは違う。Aと非Aはともに客体であり、この点において、南さんは勘違いされている。主客未分の状態でも分別はあるのである。
多くの方々が「主客未分」を特殊な境地であると勘違いしているが、そもそも「主客二元」というのは思考の中にしか存在しないのである。禅者は内観によって主客二元が虚構であることを知らねばならない。
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