禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

主体的であるということ

2018-06-30 09:02:23 | いちゃもん

昨日から「西野監督はすごい」という声を何度となく耳にする。私も確かにすごいという気がする。もし、セネガルが最後の10分間で一点入れていれば、西野監督への批判は尋常のものではなかっただろう。しかし、彼はセネガルが得点できないことに賭けた。確かにセネガルが点を取る確率はそんなに高くなかったかもしれないが、それは誰にもわからないことである。賭けに負ければボロクソに叩かれる、そのリスクは決して小さくない。なかなか常人には決断できない賭けであったと思う。そういう意味で西野氏はすごいのである。 

スポーツというのはひたむきに勝利を追及する競技者とそれを観戦する人々から成り立っている。会場にいたのは日本人サポーターだけではない。ロシアやその他の国々から大勢の人々が詰めかけていた。熱戦を期待して観に行った人々こそいい面の皮である。その胸中は決して晴れやかではなかっただろう。何万もの観客の期待よりも決勝トーナメント出場を重要視して、そういう決断ができる。そういう意味でも西野氏はすごいと言える。 

西野氏の判断の善し悪しはともかくとしても、とにかく彼は主体的に判断しリスクをとって決断している人である。私が問題にしたいのは、彼を称賛している人々である。もし、セネガルが最後の最後に一点をもぎ取って、日本の一次リーグ敗退が決定していたとしても、「決勝トーナメントへ出場するためには、彼の下した判断は間違っていなかった。」と言えるかどうかである。その場合には、懸命に戦って一点をもぎ取ったセネガルに対して、セネガルの負けに賭けて試合を壊した日本が一次リーグ敗退。あまりにもいじましくて無残でこっけいな姿が浮き彫りになってしまっただろう。その場合には、今西野氏を称賛している人々のうちの少なくない数が、正反対の評価を下していただろうと私は邪推(?)しているのである。 

そういう人たちに私は問たい。「あなたは主体的に判断していますか?」と。ただ、あなたの判断というものが、日本チームの努力とは何の関係もない他チームの試合の結果に乗っかっているだけならば、それは判断でも何でもない。あなたは主体を失っている。 

リードされているにもかかわらず、点を取りに行けばカウンターで点を取られる可能性の方が大きいから攻めない、などという自己否定的なチームが決勝トーナンメントへ行く価値があるとは思えない。最後まで果敢に戦ったセネガルが勝ち残るべきであったと私は考える。

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24 コメント

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月のような者さんへ (御坊哲)
2018-08-29 16:51:35
熱のこもったコメントを入れていただけるのはありがたいことですが、当ブログの記事と無関係なことについて、ここで述べるというのもいかがなものかと思います。
言いたいことがあれば、基本的には先ずご自分のブログを開設することをお勧めします。
あなたの主張の中の、山田無文老師が日本教徒であるということ、さくらももこさんの早世を山田花子さんの自殺になぞらえること、等にはあなたの独断がうかがえます。他人を説得するにはもっと多面的な分析が必要と思います。
是非、自ブログを開設して、じっくりと持論を展開してください。その上で当ブログにもご意見をお寄せください。
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美しさとの距離感 (月のような者)
2018-08-28 09:19:45
さくらももこさんが亡くなりましたが、基本的にこの人は自殺した山田花子という漫画家と近いタイプの人であって、しかし違う点はとてもロマンチストで自分の憧れに比較的正直な人だったということだと思います。ちびまる子ちゃんはおそらく現実とはかけ離れた、過去がこうであってほしかったというさくらさんの憧れを描いたものだと思います。
美しさや愛おしさとは現実的な幸福だけから生まれてくるわけではない、と教えてくれている気がします。
80年代的サブカル愛好者でバブル長者的なイメージも重なり合う人ですが、本質は70年代の素朴でロマンチストな女の子であって、ただその時代の人に特有の受傷様式や本人の家庭環境および鋭敏な才気が、素直な感情表現に身を任せることができない「事情」となり、シニカルに照れ隠しをする「さくらももこ」になったのでしょう。その辺りのシニカルさは時代の空気そのものでもあって、8、90年代にはそれが飽和状態に達していたと思います。さくらさんの成功はまさに時代の波に乗る形で、シニカルさと同時にその徒労感からも脱出し得る美しいノスタルジーを提供したことによるものだと思います。色んな意味で「丁度よかった」のです。
しかし53歳の若さで亡くなって浮かび上がってきた印象はやはり漫画家の山田花子に近いものであることは事実なのです。そういった等身大の姿も受け止めるべきではないかと思います。
ちびまる子は私にとっても子供の頃の思い出深い漫画であるし、仏教を知るまでの精神的な地獄の状態を出産のエッセイで救ってもらった不思議な経緯もあります。
南の島のプサディの話の表紙のまる子の大人びた表情や風にそよぐ椰子の葉が忘れられないです。さくらさんが憧れていた世界の本質ってこういうものかと非常に心に訴えてくるものがありました。
ご冥福をお祈りいたします。
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Unknown (月のような者)
2018-08-27 16:30:07
仏教はやりたくないが仏教の大船には乗りたいという人が多いのかなと。
これは自分の人生を「仏教に肯定してほしい」と解釈することもできるでしょうね。そういう世俗的な発想をする人の世俗的な価値観が肯定されることはないけど、仏教をやらずにしかし仏教が保証する安全ルートを通りたいのなら、慈悲の瞑想をやってみるとか、もっと簡単に釈尊を随念してみるとかですね。基本的にタダですから。仏弟子ですと言うだけで自然法則として生死の境で優遇してもらえると。
つまり釈尊の存在が宇宙にどれほどの影響をもたらしたか、それを結局我々は「論理的に」認めざるを得ないはずということです。そこまで掘り下げて考えてくださいと言うのは難しいですが。
しかし自分の人生を肯定したいからといって仏教をマイ仏教に歪めてしまうパターンならば戴けないと思います。変にいじらずに宇宙最高というより宇宙突破レベルの釈尊を拝んでみればまさに宇宙が味方してくれるのです。それは死後の行き先を論理的に整理できるということです。必然的に自分の内面も善的に変化するということです。
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Unknown (月のような者)
2018-08-19 17:58:54
親鸞をどう評価するべきかは一概には言えませんが、中村久子さんは評価されるべきなのです。仏教をデタラメに受容しているけど、健常と障害の壁を超えた一人の人間として一応立派にバランスを取ることに成功しているのです。
きっと戦国武将の山県昌景みたいな兎唇の人を「猫娘」とか言って見世物にしていたのでしょう。しかしそのことに疑問が持たれなかったのはなぜでしょう。昔の人が鈍感だった訳ではありません。何もかもが歪んでしまうぐらい健常者の世界にも死や病や理不尽の苦しみが溢れ返っていたからです。よほど恵まれた人でなければニュートラルな考えを持つことすらできなかったのです。しかしとことん現実の破壊性や醜さに打ちのめされ裏切られるがゆえに昔の人の内面的仏教率は現代よりも大きかったと思います。壊れる人も多かったけど達人と言ってもいいすごく立派な人も多かったのです。
もちろん現代人だから歪んでいないという甘い話はありません。現代の不幸は人間を何もかも中途半端にさせてしまうところではないでしょうか。結局どこまで惨めさに振り回されてしまうか分からない。豊かさの幻想から浮かび上がってくるのは結局辛気くささ…。昔も今もしょせんはブリキ板に描いた歪みやすい漫画が人間というものなのです。
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Unknown (月のような者)
2018-08-19 00:18:18
比較的最近の記事に対するコメントです。
山田無文老師にしても中村久子さんにしても、いかに日本的デタラメや権威主義を必要とした時代の人であったかが分かります。何かを無理にでも歪めなければ現実に対応できなかった時代なのです。
山田老師がどれほどの名僧だったかは存じ上げませんが、私が見たところ典型的な「日本教」の人だったのではないかと思います。日本教の著名な「成功者」にして、同時に失敗例の最たる者とも思われる詩人室生犀星の晩年の痛々しさを見るにつけ、山田老師が同じ失敗を避けていたのであれば、さすがは仏教徒の力量と非常に喜ぶべきことだとは思います。
しかしほとんどの場合、昔の日本の僧侶に本来の仏教徒としての力量を問うのは酷と言わざるを得ない部分はあるのではないでしょうか。というか今現在でも、僧侶も含めた日本人の実態とは日本教と仏教の混合思想民族であり、日常的には日本教を仏教が補助しているスタイルなのだと思います。主役は日本教です。やはり最終的に陥るのは痛々しさ…という結果が多いのではないかと思われます。
しかし仏教が日本教を教化することができるでしょうか?できないでしょうね。多くの場合が痛々しい結果になると分かっても変化を拒むものです。仏教は仏教であればいいのです。本当の自由があるよ、と存在し続ければいいのです。たとえ仏教徒が自殺して痛々しく見えたとしてもです。仏教徒は本当の明るさを見たことがある人なのですから。
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Unknown (月のような者)
2018-08-16 00:21:58
インターネットで仏教に関する書き込みを見ていて思うのは、仏教に興味はあるけど仏教が怖くて直視することができない人が多いのだろうなということです。
仏教を直視するということは火垂るの墓の節子もまた俗物の一人という判断を下すことなんです。確かに世界はムンクの叫びみたいなものです。それを了解できない人は銀河鉄道から途中で降りてしまう人です。宮沢賢治でさえ、戦争を経験した人でさえ、途中で降りてしまうのかもしれません。
しかし仏教が見ているのは絶望ではなく希望なのです。人間に対する最大の誠意であり、消えようのない明かりであることを納得させることは難しくとも、人間社会の厚みを知るべきなのです。悲劇性も待ってはくれないのです。つまり聡明な人々は「どうせいる」のです。彼らに何らかの返答をするためにも愚なるこの身を整えておきたいのは言うまでもありません。
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Unknown (月のような者)
2018-08-15 17:13:40
この記事なら書き込めるらしいので…。終戦記念日と仏教についてのコメントです。
「火垂るの墓」もまた「変わること」についての物語なんですね。紙一重のなりゆきで残酷なほどの明暗が生じてしまうのがこの世界なんです。清太と節子の母親が爆撃で負傷し包帯ぐるぐる巻きで変わり果ててしまった姿に自分の姿を重ねてしまう部分もあるのです。
私が仏教に向かったのはある晩全身に生まれて初めて蕁麻疹が出て、予備知識がなかったために恐慌に陥ったことがきっかけです。寝ながら無意識でガリガリ掻いたので一時的にひどい状態になりました。1日置きに約1ヶ月間蕁麻疹が出続け、少し前までその十数年前の痕跡が肌に分かりやすく残っていたほどです。しかし私がその過程で直面しなければいけなかったのは、いかに自分が過敏な精神の人間であるか、そしていかに物心付いた時から不信感の中で生きてきたかという事実です。自分の根底がどんな状態になっているかを直視しました。あの期間は「なぜ人は自殺するか」を学んだ期間と言ってもいいでしょう。その直前から内面的に奇妙な前兆はあったものの、基本的にたまたま「食い合わせが悪くて」蕁麻疹が出たからそうなったのです。結果的に仏教という地平が開かれたのです。
駅で寝る戦災孤児の横をすれ違う楽しそうな親子連れ。子供は無神経なものです。無神経だからかわいいのです。それを糾弾するべきではないのです。しかし「なりゆき」で無邪気に生じる「無神経」が凶器になる光景に直面してしまうのです。
あなたの言っていることはなぜ戦前戦中と違うのか、と問うても驚いた顔でそそくさと逃げるか、「変わらなきゃいけないんだ」と悪びれずに言うことでしょう。それが人間の裸の姿です。関東大震災で、終戦の廃墟で、人間が裸になったのです。
何も信じることができなくなった人々の視点を常の視点としていくことが仏教徒の進歩なのでしょう。
リアルを見ることは何かを無理やり納得することではありません。必然的に「解放」の第一歩となるのです。
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外野のざれごとは日常茶飯事だが・・・ (Unknown)
2018-07-04 01:10:02
たったの1か月前での緊急登板となった西野監督を頭にいただくニッポン軍。
西野監督では無理だとのバッシングの中で、部下いちがんとなっての反骨心で「何としてもでも決勝トーナメント迄行きたかった」という、
フェアープレイポイントへの僅かの可能性にその執念を賭けて見た。
神頼みで賭けてみる悲愴なまでの決断。
そんな悲願がポーランド戦采配を生んだ。
現状分析力・情報戦の勝利だったとも言える。

ずるがしこさは日本人は不得意で、
サムライ精神で「潔く敗ける」「切腹で片を付ける」とか「はかなく散る桜」等々を美化するが、
そんな「日本らしく」だけでは世界では通用しない。
ずるがしこい戦術もサッカー(そしておよそすべての勝負事でもだが)には必要で、且つそれが世界の常識だ。
ベルギー戦で奇襲作戦的なベルギー軍の逆転を喰らったのは、ニッポン軍にずるがしこさ(=逞しさ)がたりなかったということか。
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Unknown (月のような者)
2018-07-03 20:54:33
2点を先取した時点で皮肉なことに集中力が弱くなってしまったと思います。しかもベルギーの1点目が運のいい入り方だったので、あれ、これはまずいかもと。
日本人の運動特性を生かして相手の機動性を奪うようなトリモチサッカー、ハリネズミサッカーは味があって良かったと思います。この特徴をもっと世界中に印象付けるような結果になれば面白かったなと。
お互いにワールドカップの本選に上がってきた同士ですから、どんなに強い相手だろうと、アメリカ軍の戦車を前に日本軍は為す術がないというほどの絶望的な状態ではありません。日本人であれば運の流れを制し切る「粘り」の増強により優勝を狙うことは可能なはずです。その辺の粘りと迫力がまだ足りないと。
日本人がワールドカップに投影する視点も今のような甲子園的なものではなく、世界最高レベルのゲームの醍醐味を味わえる人智を尽くしたエキサイティングな祭典という風に変わっていけば結果にもいい影響が出るのではないかと思います。
とにかく運の激流を楽しめるようないい試合だったと思います。
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Unknown (月のような者)
2018-07-03 00:33:09
日本人のええじゃないか的なご都合主義はもう治らないつもりでいつつも、確実な進歩も認めるべきだと思います。
時には退歩も起きます。西南戦争で学んだロジスティクスの重要性、日露戦争で学んだ情報力の重要性はその後日本的ご都合主義の前に忘却されていきました。しかし戦争による成功と失敗で印象付けられたそれら重要なことは今の日本人の意識を見れば確実に昔よりも合理的に血肉化されています。戦争そのものについても現代人の戦争観は確実に日露戦争時の大阪人以上に醒めたものになっていると言えるのです。今現在も社会の至る所に退歩現象が見られますが心ある人が本質的に減るということはないと思います。これまでのように未来には結局進歩があります。
次のベルギー戦に関しては状況的に言って日本の方がモチベーションが高まっているのではないでしょうか。ポーランド戦の批判に対して死に物狂いで戦う動機があって、今の所日本の「戦争目的」はベスト8に入ることという空気があります。勝ち負けは分からないけど日本のエネルギーの集中は次の試合で最大になると思います。
まだ日本人のサッカーを見る目は進歩しないとしても進歩に必要な過程を着実に踏んでいることは確かだと思います。
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Unknown (月のような者)
2018-07-02 08:10:48
コメ返しありがとうございます。
一応おっしゃっていることを前提にコメントしました。
結果に引きずられてあまり考えもしないということは世の常であって仕方ない部分もあるのではないかということですね。基本的に人間はたとえ歴史的な出来事からであってもあまり学習はできないものなのではないでしょうか。人間の営み自体が投機的要素から逃げられないもの、という認識から深く考えてもしょうがないと結論付けるのは自然なことだとも言える訳です。
東郷ターンが失敗したら、真珠湾攻撃が失敗したらどうするのって、うーん、どうしようもないよと。近代の日本にはイケイケのポジティブ思考しか選択肢はなかった訳ですね。戦後の繁栄もその結果だと思います。というか日本にはこれからもそれしかないのが現実でしょうね。まあ元冦以来の伝統でしょう。
まあしかし日本人の客観性が壊れているとまでは思っていません。今回もセネガルに一点入れられたら無様という意見は当たり前のように目にしますので。
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RE:月のような者さん (御坊哲)
2018-07-02 05:30:00
なかなか分かってもらえないのですけれど、記事のテーマは西野監督のとった作戦の是非ではないのです。(決して肯定はしませんが)
問題にしているのは、決勝トーナメント出場という結果に人々の判断が引きずられていないかということです。結果が出てしまっていると人はなかなか客観的に想像力を働かせることができない、ということを訴えたかったのです。

もし、セネガルが最後に一点を入れていたら、その時の日本チームのみっともなさが想像できませんか、ということです。
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Unknown (月のような者)
2018-07-01 21:09:56
うまくいっても失敗しても賛否両論あるだろうなということですね。
かなりギリギリの状態ですから、失敗しても、まあ一つの堅実な選択をした上での失敗だからしょうがないよと肯定する意見も普通にあったと思いますよ。
とにかくサッカーのワールドスポーツ的な懐の深さを再認識した出来事でしたね。ヨーロッパ的日本的美学とミもフタもない機関銃毒ガスが共存する昔の戦場の建前と本音みたいというか。単純なスポーツだけに世界中の人達が投影する世界観、人生観、時に戦争観を飲み込んで増殖してきたサッカーだからこそ今回の賛否両論には非常な彩りが伴ってくる訳でしょう。それこそ本来の意味でのスポーツだなと思いますよ。もし学生サッカーみたいなものだとそういう見かたはまずいかもしれませんが。
やっぱりサッカーとかボクシングは人をのめり込ませる度合いが他のスポーツとは違いなとは思いましたね。
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Unknown (S)
2018-07-01 17:00:50
それに将棋の世界だって(囲碁でも)、
切羽詰まった時に、
相手の判断ミスを誘う為にイチかバチかの、おとり作戦をする、タダタダ運を天に任せて逆転を狙うなんて言う事はしょっちゅうあるし、
勝ち負けの世界では何でもアリで、
今回の件、別にドオッて事は無さそうな感じですよね。
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Unknown (s)
2018-07-01 16:29:44
私的には大して興味がない事なので、どちらでも良い事なので、
御坊哲さんが「主体性」云々で話題をふる事がよく分からないのですが、
サッカ―ライターの北條聡さんが西野監督は「究極の選択」をしたのだと評価にしてましたね。
究極の選択って、「主体的」という事にもなる訳だし・・・。

私も囲碁が好きで、
局地戦で敗けても、その敗け程度が、全体としては勝ちを引き寄せる作戦は結構経験済みですから、
今回のポーランド戦のやり方は充分致し方のない事と理解出来ますね。

参照
President Online、北條聡氏記事
president.jp/articles/-/25540
「おっさんジャパンはベルギーより有利だ」
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Unknown (senrigan)
2018-07-01 15:16:00
御坊さんのおっしゃる事はごもっともだと思います。私とて試合終了時点では監督采配に腹立ちさえ感じました。しかし冷静になると、考えが変わりました。彼は2つの大きなリスクを負ったうえでの決断でした。ひとつはセネガルが引き分けに持ち込むこと。もうひとつはポーランドが加点することです。前後二つの大いなるリスクを見据えていたのです。その選択には当然失敗の覚悟は含まれていたでしょう。そこで御坊さんの言いたいことは結果失敗した場合の第三者の発言の機会主義的無責任性を問うているのだろうと推察します。それについては大衆の不確定性あるいは狡さのようなものを私も感じました。この結果に囲碁のコミ半目勝ちを連想しました。
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RE:senriganさん (御坊哲)
2018-07-01 14:24:42
私と西野監督とは価値観が違うのでしょう。決勝トーナメントへの出場に大きな価値を置いているならばあのような判断はありえたと思います。
記事をよく読んでいただきたいのですが、問題にしているのは、マスコミがこぞって西野氏を持ち上げている、そのような風潮に対してです。

一つ前のコメントで、川淵三郎氏の言動をとり上げました。彼は「最初は怒りを感じた」と述べています。それが一転して、西野氏を称賛するようになったのは、結果的に決勝トーナメントへ出ることができるようになったからでしょう。

そこで、一つ考えていただきたいのです。もし、セネガルが最後の最後に一点入れていたら、私が思うに川淵氏は怒ったままだったのではないかと想像しているのです。
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Unknown (senrigan)
2018-07-01 14:10:41
周知の事ですが野球では敬遠が認められています。勝負を忌避する事がルールとして確立してます。フェアーか否かの問題ではないのです。勝負の世界にもしを持ち込んだら話にはなりません。また、投資運用の世界ではMPT理論というのがありまして、リスクが大きければリターンも大きい。その逆も真というものです。監督は大きなリターンを得たのです。
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RE:Sさん (御坊哲)
2018-07-01 13:54:15
>勝負の世界では勝ちが全てで何が最善の方法かなんて外野の感情では見えない事だ。

ならばこそ、ポーランド戦においては勝ちに行く姿勢が必要だったのではないでしょうか? リードされているのに点を取りに行かないという戦法があるはずはないと思います。

日本サッカー協会(JFA)相談役で、元キャプテンの川淵三郎氏は次のように語っております。
======引用開始===============
「残り10分以上ある時点でボール回しを始めた時頭にきた。コロンビアがリードしているとは言えセネガルが一点取ったら終わり。自力で勝ち取れよ!と」と、勝ちにいかない西野監督の、他力本願とも言える采配に、最初は怒りを感じたと吐露した。
 その上で、川淵氏は「しかし監督は日本が一点食らうと全て終わる。ボール回しで時間を空費してコロンビアの勝利を信じた方がトーナメント進出の確率が高いと!」「一点差で仮に負けても決勝トーナメントに進出する可能性が高いと判断しての作戦がピタリ的中した。残り五分位ならいざ知らず10分以上ある中で」と、西野監督の“究極の選択”が結果につながったことを高く評価した。
https://www.nikkansports.com/soccer/russia2018/news/201806290000380.html
======引用終了===============

私は思うのです。もし最後の最後にセネガルが点を入れていたら、川淵さんはやはり怒ったままだったのではないかと。そこには主体性など無い、結局結果オーライの世界です。
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補足 (S)
2018-07-01 08:59:31
実はわたくし、サッカーには何の興味も無いだけでなく、全てにおいてスポーツ音痴なのですが、
なんやら昔のプロ野球監督の野村監督を想い出しました。データを駆使して勝ちを取りに行く。
地味で人気があまりなかったが勝負師の根性を地で行く人。
私は野村監督のドキュメンタリーをみてから、
初めて彼の凄さ(真の強さ)をしりました。

それに比して、巨人の長嶋茂雄監督は、華麗ではあるがとっちゃん坊ヤで気分ヤで、敢えて言うと低能児的。でもスター性満点で大衆受けしてた。

今回の記事に於いて、
フェアープレイポイントも計算して作戦練る事は軍師の務めでもあるでしょう。
敵を知り、我を知るのが軍師の役目。
大いにケッコウ!!
返信する
判官びいきは負け犬の遠吠え (S)
2018-07-01 08:08:08
軍師は自軍の勝利の為に深慮遠謀を画策す。
潔く敗けるを尊ぶのもニッポン人の感傷癖だが、
世界ではあまり通用しない独りよがりに過ぎぬかも。

勝負の世界では勝ちが全てで
何が最善の方法かなんて外野の感情では見えない事だ。
さすれば、仏教の要諦は、無口・無記
返信する
RE:senriganさん(追伸) (御坊哲)
2018-06-30 20:32:45
>日本チームの勝因は僅差のフェアプレーポイントである事は称賛されるべき

称賛されるべきかどうかは微妙だと思います。フィジカルに弱い日本は接触プレーが苦手だという面もあるからです。
返信する
RE:senriganさん (御坊哲)
2018-06-30 20:25:26
今回のポーランド戦の戦い方については人それぞれの価値観の違いで意見は分かれることでしょう。私個人は絶対あのようなことをすべきではなかったと考えております。
それに対して、決勝トーナメント進出に至上の価値を置く方々から見ればあのような選択があってしかるべきという考え方も理解できます。

しかし、確率が高くないとはいえ、セネガルが最後の10分間で得点する可能性も確かにあったはずです。もし、そのようなことになっていたら、日本の世論は西野氏に対し痛烈な罵声を浴びせていたのではないかと私は想像するのです。

フェアプレーポイントを計算して、他人の試合の結果を当てにして、自分の負け試合を壊してしまう。どう考えてもそれはフェアーな態度ではありません。もし、セネガルが一点入れていれば、とんまでこっけいな一人芝居になっていたはずです。

とても結果オーライと言う気にはなりません。
返信する
Unknown (senrigan)
2018-06-30 18:06:11
いつも卓見を拝見させて頂いています。今回の件については、サムライのあるべき姿が第一に頭に浮かんできました。非常に居心地の悪い気分になりました。サムライの澄み切った碧空のような潔さからは程遠い結果と思いました。しかし、時間が経つとともに考えが変わってきました。戦ったのは怪我をしながら汗まみれになりながら、気まぐれで無責任なファン心理に晒された彼らイレブンと監督です。セネガルの得点と自滅の可能性の2つのリスクを背負いながらの決断です。彼の長いプロのサッカー人生を賭けた瀬戸際の決断を誰が責められるでしょうか。もし敗退になったとしても彼は甘んじて非難を潔く受けたでしょう。制度的アドバンテージを最大限利用することはプロの戦いの厳しさから当然是認されるべきものと思います。日本チームの勝因は僅差のフェアプレーポイントである事は称賛されるべきでもあり皮肉でもあることは否めない。それが勝負であり戦いでしょう。
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