前回記事では、「大乗仏教の視点に立てば、本来的な健常者や障害者などというものは存在しない。」と述べたので、このことについて少し説明したい。
大乗仏教の始祖は約1800年前のインドの哲学者ナーガルジュナで、日本では龍樹菩薩と呼ばれている。浄土真宗では七高僧の第一に位置づけられており、親鸞作の高僧和讃の中においても次のように謳われている。
南天竺に比丘あらん
龍樹菩薩となづくべし
有無の邪見を破すべしと
世尊はかねてときたまふ
( 龍樹に関する10首中の2首目)
一般に龍樹は空の思想の完成者であると言われている。彼の主張するところは徹底していて、一切の個物だけではなくあらゆる概念も実体としてそれ自体では存在し得ないと説く。「有無の邪見」とは物事を実体視することを指している。すべては縁起によって生じる仮象であるというのである。縁起については諸説あるが、中村元博士によると相依性つまり関係性のことである。「すべては相対的である。」といってもいいかもしれない。
たとえば、我々が「山」と呼んでいるものも、他の場所に比べて岩や土が多く比較的盛り上がっている、そういうものにすぎない。土や石をひとかけらずつ取り除いていくと、いつか「山」とは呼ばれなくなる。そこで山と非山の境界はないことが分かる。実体としての山というものはもともとなかったのだ。
山は山に非ずこれを山と名づく
山だけには限らない。人間についてもそうである。個物としての人間は、たまたまたんぱく質やカルシウムがうまいこと組み合わさって動いているだけと見ることもできる。概念としての人間iについて云えば、チンパンジーとの間のどこで境界を引けばよいのだろう? ネアンデルタール人は人間なのか? 龍樹は人間のイデアもまた空であると主張するのでプラトンのイデア論とは真っ向から対立する。
ここで留意しなくてはいけないことは、全ては空であると言っても、「空しい」と言っているわけではない。絶対視しないというだけのことである。目の前に山がある、あるいは恋人を好きだ、それらのことのリアリティを否定しているわけではない。ただ永遠に山が存在するとか恋人への愛情が永遠に続くということはない、というだけのことである。固定的な山、固定的な恋愛、そういうものはどこにもない。ものごとを固定的にとらえると執着や差別が生まれる。そのような妄執にとらわれてはならないというのが釈尊の教えである。
(その2)に続く