禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

無色無音の世界

2020-12-06 05:53:04 | 哲学
 最近奇妙な夢を見た。まるで万華鏡の中にいるような極彩色の中で、ハチャトリアンの「仮面舞踏会」のワルツが大音声で鳴り響いている、そんな夢である。めくるめくような色彩と音に息苦しさを感じ、もがくようにうなされながら目覚めたところが、みな寝静まった真夜中の事であった。
 私は学校で、音は空気振動であり、色は特定の周波数の電磁波であると教わった。しかし、私はシーンとした真夜中に確かに極彩色と大音声を聞いたのである。私は、音は決して空気振動ではないし、色も電磁波ではないということを実感した。客観的に考えれば、色も音も自然の側ではなく主観の側にあるのである。哲学者の大森荘蔵は「音がする」(エッセー集「流れとよどみ」に収蔵)というエッセーの中で次のように述べている。

≪ 元来、自然科学の世界描写というものは音無し、色なし、味なし、匂いなし、要するに眼耳鼻舌身意の六根抜きの描写なのである。六根清浄ではなく六根抜根の描写なのである。人ひとりおらず犬一匹いなくても通用する描写なのである。今から三十億年前、感覚器官を備えた生物が皆無の地球の風景を描写できる方式の描写なのである。そこには音を聞き、色を感じる生き物も無く、雨音を聞く生物もいない、だから夕焼けはただの電磁波、雨音はただの空気振動、そのようなのが自然科学の世界描写なのである。≫
 
 あらためて、元々の自然が無色無音であったことに気づかされる。客観的な世界には何も無いのである。だから自然科学では音も色も表現できない。青色の電磁波の周波数が何々ということは自然科学は説明してくれるのだが、その周波数の電磁波がなぜこの私には青色に見えるかということは説明してくれない。音も光も私の神経組織の発火現象であるという説明で終わってしまう。神経細胞の発火現象が、私の見ている色や私の聞いている音にどうしてなるのかということは説明してくれないのである。もともとの「客観的な」自然には色も音も無かったからであろう。

美しい紅葉だが、見る者がいなければこういう景色も存在しないのである。
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