以前哲学者の野矢茂樹先生を読んだときに、「馬がいないという絵は描けない」という趣旨のことが述べられていたと記憶している。馬のいる絵というものは描ける。実際に画用紙またはキャンバスに馬の姿を書き込めばいいのだ。その絵を見れば誰でもそれが馬のいる絵だと分かる。そして実のことを言えば、馬のいない絵も描くことはできる。馬の姿を描き込まなければ、確かにその絵は馬のいない絵のはずである。しかしここで言いたいのは、はたしてそれが「馬がいないという絵」であると言えるかどうかである。
以上のいきさつを知らない人に、その「馬が描かれていない絵」を見せたとしても、「ほう、馬がいない絵ですね」という人はまずいない。その絵に描かれていないのは馬だけではないからである。その絵が「馬がいないという絵」だというなら、その絵はまた「ネズミがいない絵」でもあり、「ゴキブリがいないという絵」でもなければならないはずだ。その絵一枚で「馬がいない」ということを語らせるためには、ありとあらゆるものを絵に描き込んで馬だけを描き込まないようにしなければならないだろう。もちろんそんなことが可能であるはずもない。
このように考えてきて分かるのは、「~が無い」というのは「~が有る」の否定でしかないということである。「太郎はこの部屋にはいない」という言葉は、太郎がこの部屋に存在し得ることが想定されるのでなければ実質的な意味はない。「無い」は「有る」の否定でしかないのである。