禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

魂(たましい)とはなにか?

2015-10-08 12:13:32 | 日記

一か月ほど前横浜のカルチャーセンターで、恐山の院代である南直哉(じきさい)さんの講演を聞くことができた。南さんは曹洞宗の中でいま最も有名なお坊さんであろう。講演することに慣れておられるようで、メリハリのきいたお話はとても面白い、下手な漫談よりはよほど面白かった。演題は「魂のゆくえ」ということだった。恐山は日本三大霊場の一つで、死者の集う場所であることから、このタイトルで南さんは全国各地で講演しているらしい。

しかし、魂ってなんだろう。私たちは「魂」という言葉をよく理解しているかのように使う。「魂を込めよ」とか「魂に触れた」というふうに言ったりするが、込めたり触れたりする魂がどんなものであるかは、実のところよくわかっている人は少ないのではないかと私は疑っているのである。そもそも魂についての厳密な定義というのはあまり聞いたことがない。南さんも講演の中で魂がどういうものだというようなことは説明しない。聴衆もそのことについては不審がらずにお話を聞いているのである。

しかしどうだろう、あらためて魂とは何かと問われたら、たいていの人は戸惑うのではないだろうか。誰もがある程度了解しているがその厳密な意味を知っているわけではない、「魂」という言葉はそんな言葉ではないかと思うのである。

定義がはっきりしないのは、「これ」と指差してお互いに確認することができないからだろう。確認することができないのなら、そんな概念は不要ではないかということにならないのはなぜだろう。

もし魂という概念がなかったとしたら、私が私であるということの説明がつきにくい。意識というものが脳という機械に還元されてしまうものなら、この世界がどうして、よりによってこの私(御坊哲)の視野から開かれているのかということの根拠が見いだせない。世界には70億もの人とそれこそ無数の動物がいるのであるから、その中の私がどうして特別なのかということが問題になる。それで身体とは別の霊魂というものを措定する。〈私〉の魂が私(御坊哲)に宿るという心身二元論を採用すれば、「私は私の世界である」ということの説明は(かろうじて)つくということなのだろう。もし〈私〉の魂が犬のジョンに宿っていたら、この「私の世界」はジョンの世界となっていたわけである。

これはこれで整合性のある一種の科学的仮説であるということができる。しかし、依然として魂がなんであるかということが分かったような気がしないのはなぜだろう。とりあえず、南さんのお勧めにしたがって来週は恐山に行ってみよう。行けば何かわかるかもしれない。

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