昨日、ビデオ録画しておいた映画「キューポラのある街」を観た。私の子供の頃の日本の風景がよく描かれていてとても懐かしい。あらためて「私の子供の頃の日本は貧しかったのだな」と思い知らされた。それと、この映画を観て特に印象に残ったのは、北朝鮮への帰還事業のことである。
映画では、この帰還事業が肯定的に取り扱われているが、それは当時の日本全体がそういう雰囲気だったのである。帰還事業が始まったのは1959年、私が小学校4年の時であった。私が社会というものを意識しだしたのもこの頃である。当初は学校の先生方も帰還事業は人道的見地から「良い」こととして、私たちに伝えていたように記憶している。
問題は、帰還事業の実態というものが、どうして長い間明らかにならなかったのだろうかということである。結局、この事業は1984年まで続き、合計93,340人が北朝鮮へ渡ったのである。 何百何千という人々がかかわっていれば、その悲惨な実態というものを隠しおおせないのが普通だと思うのだが、なかなかそれが一般の人々には伝わらなかった。私が一浪の後大学に入学したのは、帰還事業が始まってから10年後の1969年のことである。その頃の大学には、「朝鮮文化研究会」というサークルがあって、私の友人もそれに参加していた。どうやら、そこに参加している人たちのかなりの部分が共産党の下部組織であった民主青年同盟ともかぶっていた。いわゆる「左」がかった人たちである。実際にどういう活動をしていたのかは知らないが、彼らは千里馬(チョンリマ)運動や主体(チュチェ)思想を称揚していたことは憶えている。
日本の進歩的文化人が、金日成が指導する陰湿で残虐な謀略国家である北朝鮮を、長い間好意的に見てきたことは紛れもない事実である。日本にも情報収集する機関はあるはずだから、真相を知っている人間は日本側にもいたはずである。しかし、それがなぜかなかなか一般には伝わらなかった。結果として、9万人もの人々を地獄へ追いやることになってしまった。国家的な謀略やプロパガンダに対して、私達がいかに無力であるかということを感じる。
2003年の川口で見つけたキューポラ。