禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

天動説でもええやないか

2015-09-13 10:47:55 | 哲学

橋本凝胤というお坊さんをご存じだろうか。40年近く前に亡くなられたが、法相宗の管長で薬師寺の貫主をされていた。この人があるとき徳川夢声と対談をして天動説を主張したことがあって、それで一躍有名になったらしい。

  夢声 : ‥‥ それで天の方がぐるぐる回ってるんですか?
  凝胤 : まわっとるんです。
  夢声 : その方が便利かもしれないが‥‥。
  凝胤 : いや便利もなにも、その通りなんですよ。あんたら勝手に‥
  夢声 : 「あんたら」とおっしゃるが、その方が大多数です。
  凝胤 : 日本人ちゅうもんは、そればっかりやで。
        そう教えられたからそれに違いないと思うて‥‥。

そう、たいていの人はそう教えられたから地動説を信じているだけのことである。橋本凝胤さんは東大の印度哲学科を卒業している。一応地動説についてもそれが整合性のある説明であることは理解していると考えるべきだろう。そのうえで、「こっちがじっとしているのに、朝になっておてんとうさまが出てくる。向こうが勝手に動いてるのやよってにな。」という実感(事実)を忘れてはいけないということを言っているのだと思う。

もともと科学というのは仮説の集合である。天動説も地動説も推論により構成されたモデルに過ぎない。要は我々の経験を矛盾なく説明できればよいのである。一部の天文マニアを除いて、天動説で説明できないような経験をする人はまずいないだろう。見たまま聞いたままの「ありのまま」の世界が第一義とする仏教徒なら、唯識の学者僧である凝胤師が、より実感につながりやすい天動説を主張するのも理解できる。

これが禅僧であったならどうだろう。無門関の第29則に「非風非幡 」という公案がある。

風にはためいている幡(はた)を見て、二人の僧が言い争っていた。  
  僧A 「あれは幡が動いているのだ。」
  僧B 「違う風が動いているのだ。」
そこにちょうど、六祖慧能が通りかかり、次のように述べた。
   「風が動いているのではない、幡がうごいているのでもない。
    お前たちの心が動いているのだ。」
さらに「無門関」の編者である無門慧開が次のような解説を加えている。
   「風が動いているのではない、幡がうごいているのでもない、
    心が動いているのでもない。六祖の真意は何処か?」

二人の僧は幡がパタパタと翻っている同じ光景を見ながら、「あれは幡が動いている」、「違う、風が動いている」と異なる見解を述べる。同じ現状認識を持ちながら、原因分析が違う。しかし、禅僧の分析に如何ほどの意味があるだろうか?分析は科学者の仕事である。禅の世界観は原因ではなく結果重視である。(これはあくまで世界観の問題である。決して科学を軽視するということではない。)禅的に言えば、二人の僧は同じ事柄を違う言葉で表現しただけのことなのだ。

天動説も地動説もともにあくまで仮説なのである。問題は、学校で教わった地動説を「事実」そのものであると思い込んでしまうことにある。橋本凝胤師の「日本人ちゅうもんは、そればっかりやで。そう教えられたからそれに違いないと思うて‥‥。」という言葉は、そのことに対する警鐘であると受け止めれば意味が通じるのである。

禅における不立文字というのは、概念を組み立てて出来上がったものが真実なのではなく、まさに眼前に展開されているありのままの状況が真実なのであるという真理観に基づいている。そういう意味では地動説だけではなく天動説もまた架空のものであると言える。

(関連記事)=>「やはり地動説で行こう」

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