デカルトは考える私以外のものはすべて疑わしいと考えた。それ以来、哲学者は懐疑論というものに取りつかれるようになってしまった。私たちのあらゆる知識は確かな根拠というものを持たないのである。
極端な話、自分の精神以外はなにも存在しないのではないかとまで考える人もいる。私は自分の両手をじっと見てみる。こんなにありありとはっきり見える自分の手が実はまぼろしかもしれないというのだ。
しかし、これはおかしな話ではないか、この自分の手が自分にだけ見えて他人からは見えないのならそれはまぼろしと言うしかないが、試しに妻に「私のこの手が見えるかね?」と訊ねたら、「見えるに決まっているじゃない、あなた頭は大丈夫?」と返ってくる。つまり、私の手は実在する。日常言語の「ある」という言葉の意味はこのようであったはずだ。しかし、デカルトは執拗だ。「『君の手がある』と言ってくれる君の妻も、実は君が作り出した幻影かもしれないではないか」というのである。そこまで言われれば、この私の両手を保障してくれるものは何もないことに気づく。
私の両手はこんなにもありありとしていて、しっかりとした感触もある。開こうと思えば開けるし、握ろうと思えば握れる。こういう状態を、通常「私の両手は『ある』」と言っていたはずだ。しかし哲学者に言わせると、もしかしたらこの両手はないかもしれないという。
なんかおかしい。哲学者の言うところの「ある」と「ない」はどう違うのか?
「ある」と「ない」、違う言葉を使うからには、それらにははっきりとした差異がなければならない。その言葉を使用する人は、その差異を念頭に置きながら使用するのでなくては、その言葉は空疎である。今、仮に私の両手が本当は存在しないのだと仮定したとしたら、それが実在する場合とどのような違いがあるというのだろうか?
「ない」と言うからには、ある条件の下ではそれが「ない」ということが明確に分かっていなくてはならないのではないだろうか。
だが、懐疑論というのはそこのところが分からない。根拠が示せないから懐疑論なので、「ある」と「ない」はどこまで言っても区別できない。つまり、神さまのように超越的な視点に立てば初めて区別できる「ある」と「ない」なのだ。この区別は決して我々の経験上には現れることがない。言葉上では区別できても、その区別は指示対象をもたない。「円い三角」と同じで、言葉では表現できても私たちの能力ではその内容を思い浮かべることができないのである。
だから、私の両手が「本当は」ないのだとしてもあるのだとしても、いずれの場合にもこの現実、このリアリティにはいささかも変わりはない。禅仏教ではこのリアリティを「恁麼(いんも)」という一語で表現する。「このようである」というような意味である。そう、すべてはこのようなのだ、そこに(哲学上の)「ある」とか「ない」とか新たな意味を付け加える必要は初めからなかったのである。
臨済が喝と吠える、雲門が「バシッ」と棒をくれる、それはこの世界が恁麼であることを分からせようとしてのことに違いない。
鎌倉天園に至る径 ( 横浜市栄区 )
有ると無いの境界線の定義は不可能の様に見えます。
しかし近代科学からの知見では
有る(=実存する)粒子(素粒子)の集合体が或る物体(物質)を作り、
或る機能を共有したモノがその類に従ったグループ名をもった固体群として「有る(存在、実存)」を作り、
自己増殖できる機能を備えれば生命体という「有」を具現し、
DNAの分離・再統合で有性生殖可能な人間種という「有」を顕現させている。
科学的思考に準拠すれば、「有」は確実に存在する。
あるとないとは同じではない・・・ように思えます。
コメントありがとうございます。
あなたの仰る通りで、もちろん「ある」と「ない」が同じであって良い訳ではありません。
でも哲学者というのはとんでもないことを考え出すものでして、あなたの言うところの「科学的知見」なるものが根こそぎ夢の中のできごとである可能性はないのか、というようなことを論じているのです。
では、
哲学者=夢と現実の区別がつかない永遠の夢遊病患者??
ですかね
夢(幻想)の場合は
人間の脳内の思考から出来上がっているものなので、客観的な映像機器・音声機器・電波測定機器等々で再現できないと言う処に違いがある・・・
という事なのかもと考えられますね。
哲学者はその辺の事を何と言っているのでしょうか?
真実としては、
確実に「在る、存在する」のだけれど、
では何故存在するのかは、究極の究極まで辿ってみるとその因果関係が分からない。
超自然的な「神」を想定せざるを得ない。
しかし自然の理法で論理の統一性を保ちたい禅僧としては究極の答えなんて出せる筈が無いので、
「このようである・・・オワリ!!」と尻をからげて逃げ出すしかない。
下手な考え休むにしかず!!
これが人間の限界であるという事なのでしょう。
在るものはある。ないなんかじゃない!!
「在る」とも言えず「無い」とも言えない禅問答。
お~そうだ、この窮地を脱するには
「空だ空だ」と言ったらいいじゃん!!・・・と。
あるもないも同じ事!!、すべては空なのじゃ!!
(=色即是空、空即是色)
私の説明の仕方が悪いのでしょうが、記事本分で述べていることとは論理の筋道がずれています。
結局記事で述べている論理の道筋(整合性)がよく分からないという事に尽きますかね。
漢字が読めないですが禅僧の言う「このようである」という表現が
主題の「在るとないとは同じ事」とどう関連付けられるのかの論理的つながりがよく分からないというか・・・
「このようである=かくのごとく在る」と言う言葉は
或る状態で【在る】(存在している)を前提にしているのなら、
「あるとないとは同じ事」と言ってる訳では無い様に見えるし・・・