デカルトは疑い得るものはすべて疑って、とうとう最後にいくら疑っても疑えぬものとして、「考える私」というものに行きついた。
デカルトはその卓越した洞察力と思考力において、天才と言われるにふさわしい人物であることは間違いない。しかし、内観という点においては修練を経た禅僧には一歩及ばなかったのである。ヨーロッパ語の「私は考える」という文法の呪縛から最後の一歩で逃れることが出来なかった。「考えられたこと」と「考える私」を混同してしまった。
禅仏教においては、デカルトが「考える私」と見たものを「無」と称している。私が考える時、そこに「考える私」というものは認められない、確かなことは「考え」があるだけである。
「無」は存在者であるとも無いとも言えないようなものである。無門慧海も彼の手になる「無門関」において「虚無の会を作すこと莫れ、有無の会を作すこと莫れ」と述べている。「無」は何もないという意味でもなく、有る無しという考えにとらわれてもならないという意味である。
道元禅師の正法眼蔵の中に次の有名な一節がある。
仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。
最後のフレーズの「万法」というのはすべての事物を意味する。山川草木やすべての自然現象、私達の感官に触れるありとあらゆるものを万法という。「証」は悟りの意味で、大方の解説では「森羅万象が私に悟らせてくれる」というような解釈が一般的だが、私はあえて「森羅万象がそのまま自己の証(あかし)である」と読みたい。つまり、森羅万象の関係性の中に自己というものが形式的に成立している、とした方が哲学としてはすっきりするからである。表現方法を工夫すれば、仏教哲学は西洋哲学と同じ土俵で論じることができるはずである。
究極の主体としての「無」はよく鏡の面に例えられる。鏡はあらゆるものを忠実に映し、しかも鏡面の存在を感じさせないからだ。禅僧は山を見れば「私は山である」と言い、木を見れば「私は木である」と言う。そこに山や木を認識する主体はなく、ただただ映し出された山や木があるだけだというような感覚を表現しているのだろう。
宗教としての禅においては感覚的な表現で十分なのかもしれないが、感覚的なたとえに終始してしまっては、公共の学としての蓄積につながらない。これからはもっと哲学の方から仏教にアプローチして、その表現方法を洗練していくということを考えても良いのではないだろうかと考えている。
(新宿の目 東京西新宿)
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