先日(5/17)、横浜の朝日カルチャーセンターで、南直哉さんの講話を聴いてきました。このところ毎年聴いているので、だいたい同じような内容なのだが、絶妙な語り口で何度聴いても、とにかく腹を抱えて笑うほど面白い。失礼な言い方を許してもらえば、下手な漫才を聞くよりよっぽど面白いので、毎年聴きに行っているのです。
南師は恐山の住職代理で、哲学にも造詣深くて、今や曹洞宗を代表する論客でもあります。彼は常々仏教の要諦は、無常・無我・空・無記に尽きるという考えで、彼の法話もこの4つのキーワードを中心に話を膨らませていくという手法です。
だから、この仏教の原理とも言うべき概念から外れるような教説はバッサリと切り捨てます。例えば、「輪廻転生などという概念は仏教に必要ない。」と言い。「確かに仏典には輪廻転生のことが書かれている。しかし、それが仏教であるというなら、私は仏教徒ではなぁ~いっ!」とまで言ってのけます。
その意気やよし、禅僧たるものかくあるべしと思います。仏典は大勢の人の手によるもので、常識的に考えれば、すべてが最高の智者によって書かれたとは考えにくい。禅宗においては、仏典は指針ではあっても絶対ではない。仏教の原理になじまない教説は受け入れるべきではない、という態度はあってしかるべきでしょう。
釈尊は人間の経験の及ばない超越的なこと、いわゆる形而上のことについては言及しないということを教えています。それが「無記」ということです。なぜか日本の仏教では「無常・無我・空」についてはよく言われるのですが、「無記」ということは禅宗以外では余り問題にされていないような気がします。このことは、原始仏典が明治になるまで日本には伝わらなかったということが影響しているような気がします。
で、輪廻転生ですが、これはもともとインドの土着的な思想で仏教由来のものではないことははっきりしています。釈尊の死後、布教のための方便として、誰かがいつの間にか仏典にも潜り込ませた。しかし、死んだのち、あの世からよみがえった人は(多分)いない。私たちの知っているのはすべて他人の死であって、決して自分の死ではない。著名な哲学者が言ったとおり、「死は経験することのない概念である。」 つまり「自分の死」という言葉が実は何を意味するか私たちは知らない。それは意味をもたない言葉なのです。だから、死後のことについてはなにを言っても無意味であるということになります。無記とはそういうことであります。