一般に科学とは現象の背後にある真理を追究するものと考えられている。しかし禅仏教においては、「現前しているものそのものが究極の真理であり、隠されているものなど何もない。」という態度で世界に望むのである。「あるがまま看よ」というのはそういう趣旨の言葉である。望遠鏡のない時代においては天動説が科学的には十分な学説であった。しかし、望遠鏡が発明され観測技術が進歩すると、天動説ではどうしても説明できないことが色々とあらわになってくる。結局現在では地動説が正しいということが常識となっている。しかし忘れてはならないのは、天動説も地動説も同じ「この世界」についての説明であるということである。天動説から地動説に代わっても「この世界」は依然として同じ世界であるということを忘れてはならない。そのことを指して、禅仏教では「有るがまま」と表現するのである。 (参照==>「非風非幡」)
科学とはものごとを単純な要素に分析してそれらの関係性を探る試みであると言える。物質を細分化していけば、分子や原子さらには量子に行きつく。原子はその中心に小さい原子核がありその周囲をさらに小さな電子が回っている、それで原子の大きさというものはその電子が運動する範囲であるとされている。そういうことから「硬くて稠密な鉄のかたまりも、その実はほとんど真空のスカスカである。」というようなことも言えるわけである。しかし、鉄の塊を「真空のスカスカ」と表現することに意義はあるだろうか? それが一面の真理だとしても、鉄の原子モデルというのは稠密で硬くて重い鉄の塊を説明するためのものであったはずである。魅力的なあなたの恋人に対して、「君も所詮タンパク質と水のかたまりだね。」と言ってしまうのはどうかと思う。確かに人間はほとんど水とタンパク質からできているにしても、デート中にそんなことばかり考えたりするのは問題である。「木を見て森を見ず」ということわざがある。木を見るのが科学ならば、森を見るのが禅的哲学である。科学は大事だがそれ一辺倒ではだめなのである。
禅的哲学と科学の真理観の違いを「自然」というキーワードを通してかんがえてみよう。「自然」は元々仏教用語としての漢語であり、「おのずからしかり」とあるように人為的な計らいのない様を表現する言葉である。それが、江戸末期に nature の訳語とされたことによって、人間精神から独立して存在する山川草木(つまり物質宇宙のこと)の意味が付け加わったのである。それで通常は、前者の場合は「じねん」、後者の場合は「しぜん」と読む。科学は自然(しぜん)の理(自然法則)を見極める学問であり、禅(と言うより仏教)は自然(じねん)の理に従う、つまり計らいを捨てて生きる生き方だと言えると思う。
自然科学的には、魅力的なあなたの恋人もほとんど水とタンパク質に過ぎないというのは本当のことなのだろう。しかし、それだけでは十全なものの見方とは言えない。虚心坦懐に彼又は彼女をあるがまま受け入れる。それがここで取り上げた禅的真理観である。「柳は緑、花は紅」というのはそういうことを意味しているのである。