NHKのEテレ「100分de名著 カント ”純粋理性批判” (3)」の録画しておいたものを視た。今回は、4つのアンチノミーがテーマである。アンチノミーというのは、私達の経験が到達できないものについて考える場合に、全く正反対の結論を導き出し得ることを言う。カントは次のような4つを例示している。
- 宇宙は時間と空間に関して有限か無限か?
- 物質は分割不可能な原子からできているか、際限なく分割できるか?
- 自由意志は存在するか、それともすべては自然法則による因果関係なのか?
- 必然的な存在者(神)の実在するのかしないのか?
例えば、第一アンチノミーの宇宙の始まりについて考えてみよう。一般にはなんでも始まりというものがあるのである。始まりがあって経過がある。もし始まりというものがなければ、われわれのいる今現在に至るまで無限の時間が経過していることになる。しかし、「無限の時間が経過した」と言葉で言えるが、無限の時間とは決して経過し得ない時間のことであり、どれだけ時間がたったとしても現在に到達することはないということである。では、宇宙に始まりがあったとしたらどうだろう? その場合は確かに現在に至ることはできる。しかし、「宇宙の始まり」以前はどうであったかを説明することができない。
ここで伊集院光がこんなことを言い出した。 「だんだんカントの軸が分かってきた。この世、あの世ってのもそうじゃないですか。『あの世ってあるのかな?』って話だけれど、自分の認識のことを『この世』って言っているわけで、そうじゃないものを『あの世』とした場合に、 『この世』があるんだから『あの世』だってあるじゃんという人と、 『この世』しかないよっていう、だってその先はスイッチがオフになったときの話だからっていう(人がいる)。あの世があるのかないのかという議論がもはや成り立たない。」
この伊集院という人は実に鋭い人だと思う。私たちは認識できるものしか認識できないのである。「認識できるものしか認識できない」というのは同語反復で実に当たり前のことなのだが、この認識できるかできないかということを見極めるためには、私達の認識そのものを見下ろす超越的な視点に立たねばならない。それは認識できるものと認識できないものの双方を認識できないとできない相談である。われわれは超越的な視点に立つことはできないが、理性の性質を洗い出し、そしてできうる限りその限界を見極めようとする、それがカントの言う超越論的哲学である。「あの世があるのかないのかという議論がもはや成り立たない。」ということを悟る。それが「超越論的」ということのその第一歩である。