「ニワトリが先か卵が先か?」というのは原因と結果が循環している場合の例えだが、どんなことでも無限に循環しているということはない。ニワトリは人間が家畜化したものに違いないから、はじめて「ニワトリ」と呼ばれた鳥が必ずあったはずである。
そこで、Aさんはこう言う。「どんなニワトリも鳥である限り、卵として生まれたはずである。だから卵が先である。」と。しかし、それに対してBさんはこう言う。「Aさんの言うその最初の卵はニワトリ以外の鳥が生んだものである。それが卵のままであるときは、あくまでニワトリ以外の鳥の卵でしかない。それが成鳥となってはじめて『ニワトリ』の概念が成立するのであるから、ニワトリが先というべきである。」
AさんとBさんの言い分のどちらが正しいのだろうか? どちらの言い分にも一理ありそうである。そして重要なことは、AさんとBさんの現実認識は同じであるということである。つまり、AさんとBさんは同じことを違う言葉で表現しているのである。私たちは言葉で考える。自分の語感を疑うことは、自分の思考の外に出るというようなことでもあってとりわけ難しい。「〇〇が△△より先」という言葉の意味するところは一見単純明快そうだが、実は多義的であって、AさんとBさんではその使い方が違うのである。
哲学者のウィトゲンシュタインは、「言葉の意味はその使用である。」というようなことを述べている。私たちは、明確な「対象」があってそれに対応する言葉を使っていると思いがちだが、実はそれはあやしい。話は逆で、「〇〇が△△より先」というような言葉が、それに対応する対象としての「像」を作り上げているとした方がつじつまが合う。
AさんとBさんの現実認識が同じならば、彼らは本来議論において対立する必要はないはずである。この場合あえて、ニワトリと卵のどちらが先かを決定することに大した意義があるとは考えられない。よくよく考えてみれば、双方の見解にそれほど違いが無いことも分かるはずである。ただ、「〇〇が△△より先」という言葉に対する自分の語感を捨てることが出来ない。そのためお互いの主張を譲ることが出来ないということになる。
実は、このようなことは日常的に結構あることではないだろうか? ちょっとした言葉の意味に拘泥するあまり、深刻な信念対立があるかのような喧嘩腰の議論に陥った、というような経験は誰にもあるのではないかと思う。そのような時には、自分の言葉のつかい方を反省せねばならない。前にも述べたように言葉と思考は一体なので、それは一種の自己否定のようなものだからなかなか難しい。そういう時に哲学が必要となってくるのだろう。
彼岸花 本文とは関係ありません。