人間はわりと迂闊なもので、ごく身近なことなのに何十年も気が付かないことがある。例えば、左右の鼻の穴はいつも同時に通じているわけではなく、大抵は何時間かおきに交替で働いている、というふうなあまり知っていても知らなくてもよいような知識を、この歳になって知ったりする。なんだかチコちゃんに叱られそうだが、あらためてそういうことを知ると、人間の盲点に気づいたような気がして、なんだか私は楽しくなるのである。
「日本語はウラル・アルタイ語族に属する。」ということはよく言われていることで、知っている方も多いと思う。しかし、そもそもウラル・アルタイ語がどんなものかを知らないのだから知識としては余り有意義ではない。 それで今、言語学者の田中克彦先生の「ことばは国家を超える」という本を読み始めたのだが。それによると「アルタイ語には『ラ』行で始まる言葉がない」のだそうだ。現在の日本語にある「ラ」行で始まる単語は外国由来のもので、本来の大和言葉にはないというのだ。確かに、子どもの頃しりとりをしている時に、「り」で始まる言葉は「りす」と「りんご」くらいしかないなあ、という気はしていた。そう言えば、「栗鼠」も「林檎」ももともとは漢語である。試しに、国語辞典の「ら」の部分を引いてみる。「等」、「羅」、‥‥「雷雨」、「雷雲」、「来演」‥‥。なるほど、ざっと見たところ漢語をはじめとする外来語ばかり、本来の日本語である大和言葉は全然見当たらない。
言われてみれば納得だが、毎日日本語をしゃべっていてもこれはなかなか気が付かないものである。現代の日本人にとっては、すでに「ラ」行から始まる言葉を発することには抵抗が亡くなっているように見えるが、江戸時代の人はロシアのことを「オロシア」と言っていたことから判断して、その頃の日本人はまだ「ラ」行から始まる言葉を口にすることには抵抗があったのだろう。おそらく、江戸末期から「ラ」行から始まる外来語がたくさん流入したことによって、我々はそれに慣れてきたのだろうと思う。
今では、日本人自ら、新しい年号を「令和」と定める程になってしまった。「ラ」行で始まる年号に抵抗を感じる日本人はどれほどいるだろうか。田中先生は「『令和』という新しい元号が発表されたとき、私は、こんなラ音ではじまる本来の日本語にはなかった発音様式は「国粋的」ではない、困った名づけだと思った。」と述べている。私は、元々年号は中国由来のものであるから「国粋的」でない方が相応しいような気がする。むしろ、年号を「国粋的」と感じることに問題があるような気がしている。
とにかく、私はもっとも身近な言語についてのトリビアを初めて知ってちょっぴり嬉しくなった。チコちゃんはこんなこと知っているだろうか?
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