昨日、小坂国嗣先生の西田哲学の講義を聴いてきたのだけれど、先生が面白いことをおっしゃっていた。西田が親鸞に傾倒していたことについて、浄土真宗が盛んな土地に生まれたということ以外に、西田自身の資質がかかわっていたのではないかと言うのだ。先生は、西田は禅を相当やったけれど、性格的には禅には不向きな性格だったかもしれないと言う。というのは、彼の日記などを見ると、彼は甘いもの好きでつい自制ができなくて甘いものを食べ過ぎてしまう、そんな述懐がたびたび出てくるのだという。先生は「私にはどうも理解できない。食べてはいけないと思うのなら、食べんときゃいいじゃないかと思うのですがねぇ。」と言う。 しかし、先生が言うには、優れた宗教家にはそういうタイプの人が多いのだという。親鸞がその典型であろう。そういう人であればこそ自分の罪というものを強く意識する。宗教はそういう人のためにあるのだろう。特に浄土真宗は「分かっちゃいるけどやめられない」タイプの人のための宗教である。そこに西田が傾倒する理由があるということだろう。 先生ご自身はそういうタイプの人ではないと自覚しているようだ。自分なりの法に抵抗なく従える人という意味で倫理的人間を自認しているようだった。
先生の述べられたことを総合すると、浄土真宗は宗教的人間向き、禅は倫理的人間向きと考えておられるのかもしれない。イメージ的には確かにそんな感じがしないでもない。しかし、西田の親友である鈴木大拙は禅の大家でもありながら、西田以上に親鸞に傾倒しているように思える。それに、日本のインテリには親鸞ファンがとても多い。三木清や吉本隆明も晩年近くには親鸞への傾倒を深めている。先生の仰ることは確かにかなり説得力があるのだが、なかなか見極めが難しいことだと思う。