日本に伝えられた仏教は中国を経由している。当然日本に伝えられた仏典はすべて漢語で書かれている。かつての日本は文化的には辺境の地であるから、やまと言葉は難解な思想を翻訳できるほど成熟していなかったのだろう、とにかく我々は仏教を漢文のまま受け入れたのである。
このことによって、仏教は実際以上に難解なものというイメージを我々は持ってしまったのではないかと思う。漢文の持つ響きは荘厳で重い。その重い響きの中に我々は神秘的なありがたさを感じるているのではないだろうか。時には衒学的な匂いがすると感じるのは私だけだろうか。
金剛般若経に次のような一節がある。
「仏説般若波羅密、即非般若波羅密、是名般若波羅密」
「仏の説く般若波羅密は即ち般若波羅密に非ず、是を般若波羅密と名づける」と言う意味である。鈴木大拙博士が「A は A にあらず、ゆえにAなり」と定式化し、これを「即非の論理」として世に広めたのである。
即非の論理などと言うといかにも物々しいが、「一切皆空」が仏教の根本原理であることを了解していれば実に当たり前のことなのである。
「山は山ならず、これを山と名づける」
我々は山を見て「山」と言う。しかし、「山」と呼ばれるものの実体はないと言うのが、「山は山ならず」と言う所以である。
山は土と石でできている。その山を少し削るものとする。そしてその土と石をバケツに入れたとする。私たちはそのバケツに入れられた土と石を決して山と呼ぶことはない。また、少しくらい削られても、相変わらず元の山を「山」と呼ぶ、削られた分確実に変形しているにもかかわらずである。
仮に半分くらい削られても、それは山と呼ばれる。だが、どんどん削っていくと、必ずそれは山と呼ばれなくなる。その境界というものはあるのだろうか。一体私たちはなにを指して「山」と呼んでいるのだろうか?
このように考えていくと、私たちが「山」と呼んでいるものの実体は存在しないことになってしまう。それが「山は山ならず」と言うことである。山に限らない、私たちの持つ概念と言うものはすべて、このように実体をもたない抽象的な記号に過ぎないのである。一見具体的な物事を考えているつもりでも、我々の思考は抽象化された記号の操作である。また、その抽象化がなければ、我々の思考も不可能となる。だから、「これを山と名づける」のである。
以上述べたことが金剛般若経の趣旨であると私は考えている。そんな難しい話ではない。「一切皆空」であると言っているだけである。ところが、インターネットでこの即非の論理を検索すると、我々が「論理」と呼んでいるものを超越した論理であるかのように語っているものがある。
インターネット上では 「これを山と名づける」ではなく、「それ故これは山である」としているものが多い。おそらくそこには一歩踏み込んだ解釈があるのであろうが、「これをAと名づける」と「それ故これはAである」とではまるきり違う。
私が散見した解説では、この語法について納得のいく説明をしてくれているものはまだ見当たらない。