キリスト教においては、魂は永遠不滅の人間の本質であるとされているようだが、なかなか明確な定義というものは見当たらない。肉体を超越した「実体」であるとみなされていることは間違いないようである。
もちろん唯物論者ならばこのような正体不明の概念を認めたりはしないだろう。彼らは脳というメカニズムがあれば精神活動は生まれるものだと考える。あえて非物質的な「魂」なる概念を持ち込むことは必要ないと主張するのである。
なるほど、唯物論者の言うように我々の精神活動も、すべて物質的な物理現象に還元されるのかもしれない。しかし我々はそれでも「魂」の概念には普遍性があると感じるのである。
もしこの世界が唯物的なものであれば、私と私の友人の鈴木君は同等であり、この世界は「私の世界」としては開けていることの根拠がなくなってしまうのではないかと考えられるのである。
私にとって、この世界は「私の世界」としては開けている。友人の鈴木君はあくまで「私の世界」の中の一点景として存在する。この世界の中で私と鈴木君は同等ではない。あくまで私は「比類なき私」としてこの世界の主催者である。唯物論ではこの「比類なき私」についての説明ができないのである。そこで、私には私の魂が、鈴木君には鈴木君の魂が存在するのではないかと考えられる。鈴木君の魂から見れば世界は「鈴木君の世界」として開けており、その中での私(御坊哲)は一点景にすぎないと推測される。
魂の概念を導入すれば一応「〈私〉の比類なさ」を説明することができる。しかし、それが永遠不滅の実体であるかはなかなか判然とはしない問題である。我々が直感できるのは「この世界は『私の世界』としては開けている」という実感だけである。この実感がある種の絶対性を帯びているために「永遠不滅」、「実体」という概念が忍び込みやすいのだろう。
仏教では一切皆空であるとしていかなる実体をも認めない立場をとるので、魂についても永遠不滅の実体と見るわけにはいかないはずなのだが、私見では魂だけは例外としているように見受けられる。
禅仏教では本当の自己を「本来の真面目」と言うが、臨済はこれを「赤肉団上の一無位の真人」と称する。赤肉団と言うのは肉体のことである。一無位の真人というのは何の性質も帯びていない本当の自分と言う意味であろう。いかなる性質を帯びていないにもかかわらず私を私たらしめている、それが本当の自分であるというのである。別の言葉では「父母未生前の我」とも言う。父母が生まれる前に自分が生まれるわけはないが、本来の真面目は時間や空間を超越しているというのである。
ここで本来の真面目を魂と呼び換えてみよう。ならば、魂は永遠不滅の実体と言ってもよいのではないだろうか。いかなる性質・属性を持たない、いわば『無』であるがゆえにそれは時間・空間を超越する。永遠の過去から未来を貫くような絶対性を帯びている。だから西田はそれを「絶対無」と呼んだのだろう。
既に私は戯論の中に足を踏み入れているように感じているのだが、哲学と言うならこのような問題についてもう少し明晰に言語化できないものかと煩悶している。