以前、「禅的直観と論理世界 」という記事の中で、次のように述べた。
≪禅的ものの見方というものを定義するとすれば、「究極の素朴さをもってものを見る」と言えばよいような気がする。見えるものを見えると言い、見えないものを見えないということである。人は時として、見えないものを見えるといったりするものである。≫
「見えないものを見る」というと禅の公案のようでもあるが、ここで言っているのは謬見のことである。つまり錯覚である。今回はこの謬見の例について述べてみようと思う。よく「時間が流れる」というような言い方をするのだが、いったい時間はどこからどこへ流れているのだろう?
右から左などという人はいない。たいていの人は、「過去から未来へ」または「未来から過去へ」と言う。
しかし、例えば「過去から未来へ」というならば、時間というものが過去にあって、それが現在にやって来て、そして未来の方に行ってしまうのか?
そのように問うとどうも要領を得ないのである。
「過去から未来へ流れている」と言うには、まず過去の中に時間を見、そしてそれが現在、未来へと移っていく様を見ているはずでなくてはならないのだが、どうもそうではないらしい。実は、見えていないのである。
見えていないから、禅者は(流れている)時間は無いというのである。
禅者は常に己事究明を心がけており、常に実存的な立ち位置からものを見ている。架空の視点というものをもたない。つまり、「今」と「ここ」しかないのである。
禅者にとっては、過去は記憶で未来は想像と同義である。つまり、過去も未来も存在しない。常に今である。
「今」は過去や未来と並べられる概念ではない。すでに生起した事実を想起する時その想起の内容を過去と呼び、これから生起するであろう事柄を想起する時その内容を未来と呼ぶのである。それらを想起しているのは今しているのであって、過去とか未来とか呼んでいるのは、その想起した内容のことである。このように考えると、過去とか未来とか呼んでいるその「時」が実はどこにもないのが了解していただけるだろうか?
純粋な時間というものがどうしても取り出せない。時間そのものを思い浮かべようとしてもどうしても無理なようだ。時間を思い浮かべようとすれば、動いてる時計のイメージや恋人を待つあいだの焦燥感だとか、どうしても他のものに付随する形式でなくては想いうかべることができない。
時間の概念がなぜ有効なのかを考えていくと、次の2つの要素に行きあたる。
① 出来事の順序関係
② 出来事の同時性
物理的要素という観点からすると、時間に関するものは結局この2点に収束する。
いろんなプロセスが同期するということから時間概念は生まれたのである。太陽や月の運行が振り子の振動数と厳密な関係にあると分かった時、我々は様々な運動やプロセスの量が振り子の振動数に還元できることを知ったのである。つまるところ、時間とは運動やプロセスの量をはかる尺度のことである。つまり、振り子の振動数そのものを時間と考えて何の不都合もないということである。つまり、「時間とは時計の針の動きそのもののことである」と定義すれば事足りる、というか、それ以上の意味が「時間」という言葉に含まれていると考えていることに、そもそもの問題があると私は考えているのである。
全身麻酔手術を経験したことがおありだろうか? 笑気ガスのマスクをあてがわれたとほぼ同時に意識がなくなる。その次の瞬間に、おぼろげな意識の中で手術台の照明が視野の中に浮かんでくる。もうその時には手術が終わっているのである。
私はその時、時間というものがいかなる意味においても、時計の針の動き以外のなにものでもないと悟ったのである。
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