前回の記事で、実存主義者の言うところの本質とはイデアのことであるというようなことをのべたので、今回はこのイデアについて考えてみたい。
昔から哲学では、真・善・美が主要なテーマとして論じられてきたが、プラトンは真、善、美がそのものとして存在すると考えていた。存在と言っても、それらは現実存在(existentia)としてではなく本質存在(essentia)として、形而上の領域に存在すると考えていたのである。
ローマの休日のオードリー・ヘプバーンは実に美しい。三保の松原から眺める富士山も美しい。ヘプバーンと富士山は全く違うものなのにともに美しいのは、その中に美そのものを宿しているからだ、とプラトンは考えた。真・善・美だけではない、あらゆる現実存在としての個物には本質存在としてのイデアが宿っていると考えられたのだった。例えば、現実に存在する人間はどの人もそれぞれ違う人間であるのに、どの人も人間であるとわかるのはそれぞれの人が人間のイデアを宿しているからだというわけである。
人間のイデアはどの個別の人間とも違うが「人間そのもの」ともいうべき人間の範型である。それは時空にかかわらず存在するものであるから、人類が出現する以前からあり、人類が滅亡しても存在し続ける。このイデアの永遠不滅性が大乗仏教の無常観と相いれない。
仏教は無常と空を根本原理とするが、抽象観念においては永遠固定性を認める諸派もある。しかし日本に伝わった大乗仏教においては、始祖である龍樹(ナーガルジュナ)の空観は徹底していて、いかなる固定観念も認めない立場をとっている。イデア論とは真っ向から対立するのである。
世界は常にダイナミックに流動しているのであり、一瞬も同じ形をとどめることはない。龍樹の世界観では、現実存在としての個物というのは、流動する世界の中に現れる比較的安定的なパターンというようなものでしかない。たとえて言えば水の中の渦のようなものである。渦の中の水は絶えず入れ替わっており、渦の実体と考えられるものは本当はないのである。人間も実は同じようなものである。人間は外部から空気や水や栄養を取り入れ、内部に循環させて排出する。人間を構成する物質は絶えず入れ替わっており、固定的な実体と言えるものはどこを探してもないのである。水の中にできる渦より多少複雑で安定はしているというだけのことでしかない。
龍樹の固定観念を排する視点は物質的なものにとどまらずあらゆる観念に及ぶ。例えば「走る」という言葉などもその実体はないと考える。我々は「人が走る」、「馬が走る」、「稲妻が走る」と「走る」を同じように使うが、それらの状況は実は全然別のものである。「人が走る」ということについても、交互に片足ずつジャンプしながら前に1センチずつ進んでいくさまを普通「人が走る」とは言わない。1センチではなく1メートルなら「走る」と言ってもよいかもしれないが、「走る」と「走ってはいない」の境界がどこにあるのか判然とはしない。同じ人が走っても、微細にみればその時々によって実は全然違う動作をしているのである。
龍樹は言葉を一種の方便だと考える。他者に何かを伝えるには言葉しかないのであるが、それは社会生活を営む上での最低限のことしか伝わらない。言葉はしょせん言葉でしかなく、それに頼りすぎると本当の世界を無理やり定型的な範型に押し込めることになってしまう。本当の世界は言葉では表現できないほど玄妙であり充実している。そういう視点からみれば「不立文字」ということも当然のように理解できるのである。「あるがまま」とは世界の玄妙さを、概念のフィルターを通さないでそのまま受け止めるということである。「柳は緑、花は紅」というのも、あえて凡庸な表現によって世界の充実を暗に示しているのである。この世界の玄妙さはしょせん言葉では伝わらない。
「始めに言葉ありき」のロゴス的世界観と大乗的世界観は全く違うのである。
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