前回記事では、「未来は決定している」という言葉の意味を誰も理解できない、というような直感的にはちょっと受け入れがたいようなことを述べた。御坊哲はまた変な理屈をこねているだけではないのか、と思われた人がいるかもしれない。もう少しそのことを実感できるような例について考えてみよう。
大学入試の合否判定は教授会の合否判定会議で決定する。判定はたいてい合格発表の前日以前に決定しているのが通例である。だから、合格発表当日には「既に合否は決定している」わけである。ところが、発表当日に孫娘が掲示板を見に行った時、おばあちゃんは仏壇の前に座って、ご先祖様と仏さまに「どうか孫娘を合格させてやってください。」と、孫娘が電話で結果を知らせてくるまで祈り続けていたのである。
おばあちゃんは「既に合否は決定している」ことは知っていたと言う。知ってはいたが、祈らずにはいられなかったというのである。どうだろう。本当にそのことを知っていたのなら、いくら神仏に祈ったところで、なんの意味もない、いわば「後の祭り」である。わたしはやはり、おばあちゃんにとって、「既に合否は決定している」という言葉の意味は分かっていなかったのではなかろうかと思うのである。
「未来はすべて決定済である」ということが正しかったとしても、崖の上から石が落ちてくるのを見たら、私は大急ぎでそれを避けようとする。ラプラスの悪魔は私に、「崖の上から石が落ちてくるのも決まっていたし、お前がそれを避けるのも初めから決まっていたことだ。」と言うだろう。もし、私が「すべては決定済」だから、あえて避けようとするのはやめておこう。」と思ってじっとしていたら、石が頭に当たって大けがをしてしまった。その場合も、ラプラスの悪魔は、「お前が避けずに石に当たってけがをすることも決まっていた。」と言うに違いない。要するに、未来が決まっていても決まっていなくとも同じことなのだ、ラプラスの悪魔は決して事前にそのことを教えてくれない。
「未来は決定している。」という意味不明な言葉と「自由意志」を関連付けるのがおかしいのである。立ちたいと思えば立つ、座りたいと思えば座る。それが「自由」ということである。われわれは「自由」という言葉をそのように使っている。それ以外に「自由」の意味はない。
富士山本宮浅間大社(富士宮市)