日本を代表する哲学者である大森荘蔵は「決定論の論理と自由」という論考の中で「空虚な決定論」ということについて論じている。その一部を引用してみよう。
≪ 伏せて重ねたトランプを見て、「一番上の札がなんであるかは知らないが、なんであるかはきまっている」という時、一体何が言われているのだろうか。この言葉を聞いて、それを聞かない前に比べて、私の知識が些かでも増しただろうか。この言葉はどんな情報を伝えようとしているのだろうか。元来、この言葉にはなんの情報も含まれていないのではないだろうか。私にはそう思える。‥‥‥‥≫
ということで、このような言明について大森は「経験的に無内容」であると表現している。一体、哲学者は何を言っているのか? 大森は「伏せてあるトランプの一番上の札がなんであるかは開く前から決まっている。」という言葉の意味がわからないと言っているのである。たいていの人はそんなことを言われれば面食らってしまうだろう。
≪ 伏せて重ねたトランプを見て、「一番上の札がなんであるかは知らないが、なんであるかはきまっている」という時、一体何が言われているのだろうか。この言葉を聞いて、それを聞かない前に比べて、私の知識が些かでも増しただろうか。この言葉はどんな情報を伝えようとしているのだろうか。元来、この言葉にはなんの情報も含まれていないのではないだろうか。私にはそう思える。‥‥‥‥≫
ということで、このような言明について大森は「経験的に無内容」であると表現している。一体、哲学者は何を言っているのか? 大森は「伏せてあるトランプの一番上の札がなんであるかは開く前から決まっている。」という言葉の意味がわからないと言っているのである。たいていの人はそんなことを言われれば面食らってしまうだろう。
大森は言葉(命題)の意味というものをその言葉の真偽の条件であると考えているのである。つまり、その言葉が「どういう場合に正しい、あるいは間違っている」ということが分かっていないと、その言葉を理解しているとは言えない、ということを主張している。例えば、「雪は白い」という言葉の意味について考えてみよう。雪が白ければその言葉は正しいし、もし雪が黒ければ間違っている、ということが理解出来ていれば、あなたは「雪が白い」という言葉の意味を理解していると言ってよい。では、「伏せてあるトランプの一番上の札がなんであるかは開く前から決まっている。」という言葉はどういう場合に正しいと言えるのか? と、大森は問うている。
ニュートンが力学の法則を発見した時、人々はそのあまりの正確さと精妙さに驚き、「この世界の全ては物理法則に従って動いているのではないか。」という考えられるようになった。問題は、人間の精神活動までもが物理法則に従っているのではないかということである。もしそうだとすれば、人間に自由意志などと言うものはない。未来はすべて機械論的に決定されていることになるからである。
では、「未来は決定している」という言葉はどういう場合に正しいと言えるだろうか? もし、AI技術が進歩して、コンピューターがどんなことでも予測出来てそれがずばずば当たる、そういうことがあれば「未来は決定している」ということが言えるだろう。しかし、そんなことは原理的にありえない。未来を正確に予測するためには、この世界の全要素について勘案しなければならないが、コンピューター自身がこの世界の一要素である限り、自分自身の計算結果そのものについても計算しなければならないという循環におちいってしまう。
つまり、厳密な未来予測は絶対不可能であり、「未来は決定している」という言葉の真偽について、その検証方法を私たちは持ちえない。「未来は決定している」と言葉では簡単に言えるが、その言葉の意味を私たちは理解しているとは言えないのである。そして、もし「未来は決定している」かどうかを「人間は自由である」かどうかの根拠だと考えているなら、「人間は自由である」という言葉の意味もまた理解していないと言えるだろう。
いちょうの若葉が美しい。