前回記事に引き続き、「論理哲学論考」より引用する。
6.431 死は人生のできごとではない。人は死を体験しない。
永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、
現在に生きるものは永遠に生きるのである。
視野のうちに視野の限界は現れないように、生もまた、
終わりをもたない。
われわれが「死」について語るのは通常は他人の死、生物学的な死についてである。自分の死について語っているつもりでも、そのときは自分を第三者として見ているのである。たいていの人は死を睡眠の延長のようにとらえているのではなかろうか。しかし、睡眠中にも人は夢を見るし、必ず覚醒がともなう。死とは根本的に違うのである。
哲学や宗教で問題となるのは、実存としての自分の死についてである。しかしウィトゲンシュタインは、死は経験することのない概念であると言う。死もまた「語りえぬもの」なのだ。
この「語りえぬもの」という概念について、ウィトゲンシュタインより2000年以上も前に示唆した哲学者がいる。仏教の始祖であるお釈迦様である。
釈尊は死後の世界について問われた時、黙って答えなかったという。このことを指して、仏教では「無記」という。無記は、形而上の問題には言及しないという、仏教において非常に重要な概念である。
仏教は多くの人々の手を経て伝えられているので、いろんな夾雑物を含んでいる。神秘的な迷信まがいの物語性は、無記の精神に照らせば、釈尊の説いた本来の仏教とは相いれないものである。
京都に妙心寺の御開山は関山慧玄国師である。その関山国師にある修行者が死について訊ねたのに対し、「慧玄が会裏に生死無し」と答えたと伝えられている。「わたしの所には生も死もない。」という意味である。
私たちは、自分が「生きている」ということについては分かったつもりでいるが、生は死の対称語である。死が分からなければ、生もまた分からない。私たちはただ所与のものを「生」と呼んでいるに過ぎない。このことはまた所与のものを「私」と呼んでいることによく似ている。デカルトは「我あり」と簡単に結論付けたが、その「我」が何であるかは定かではないのである。
永遠とは存在の視点で考えるべきで、それ自体的な意味と私たちに取ってある限りでの意味の二つです。
前者は神の存在、後者は不完全な意味での永遠です。
後者の永遠はイエス・キリストへの信仰において見出されます。
こうした信仰を持つひとは不完全であっても、永遠の存在に与っているのです。
あの著名な哲学者は存在の視点で物を考える力が
無かったのではないでしょうか?
私にとっての死は、私において把握される限りでの死です。
例えば、私が大腸癌で肝臓にも癌が転移していると医者に告白され、あと一年の寿命しかない、と言われたらどうでしょう。
これは、死です、私はハンマーで殴られ、血が出ているのです。
貴様のブログは、畳の上での発想で、極めて
観念的です。
明日、死ぬひと、苦しみの沼でもがいている人間を
知らないから書けていると考えます。
今は日本にいます。木曜に着いて恐山での坐禅修行が終わったら帰ります。
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