あなたが会社員であればおそらくIDカードというものを持っているだろう。そしてあなたは会社の入り口で、そのIDカードをIC読み取り機にかざす。そうすると、読み取られたデータが所定のデータと比較され一致すれば、あなたはあなたとして認められる。街中を歩いていてたまたま知人に出会ったとする。その人はあなたを認めて、「やあ、〇〇さんではないですか、お久し振りです。」などと声をかけてくるだろう。多分、その人はあなたの姿形を覚えていて、その記憶と今のあなたの姿形を比較した結果、あなたをあなたであると特定したのである。英語ではこの「特定する」ことをidentify(同一化)と言う。すべての属性が同じなら、それは同一物に違いないという発想である。すべての属性の総和がその個物のアイデンティティとなる。
そこで、「自己のアイデンティティ」というものについて考えたいのである。それは一体どういうことなのだろう? 自分をidentifyするためには何と何を比較しているのだろうか? たぶん比較などしていないのではないかと思う。「私が御坊哲である」という自覚はおそらく自分自身の記憶に支えられている。今までの連綿として蓄積されてきた記憶が、私自身がどういう人物であるかという自画像を形づくっていると見て間違いはないだろう。もし、それらの記憶をすべて失ってしまったら、「私は一体誰?」ということになる。私は自分を御坊哲であると認識することはできなくなってしまう。
しかし、ここで留意したいのは、その記憶というのは御坊哲のアイデンティティではあっても私自身のアイデンティティではないということである。その証拠に、あらゆる記憶を失ったとしても、おそらく「私は私である」と思っているはずである。私は私以外になれない。整形手術して他人を装ったとしても、私にとっては依然として私は私である。私は何かを比較して私をidentifyしているわけではない。それは初めから所与であり、比較を絶して私は私なのである。天上天下唯我独尊とはそのことである。
「私は私の世界である」(ウィトゲンシュタイン)