1月4日の記事「龍樹 VS ウィトゲンシュタイン」における両者の対談は、初めから龍樹の土俵で勝負しているため、ウィトゲンシュタインにとっては不公平であったかもしれません。龍樹は感官に触れる世界のあらゆる要素を全的に受け止めようとしているのに対して、ウィトゲンシュタインは思考し得る世界を問題にしているのだから、本来話がかみ合うはずがないのです。
「太郎は次郎の兄である」
上の言明は龍樹から見ればきわめて抽象的なものでしかないが、ウィトゲンシュタインはそれを十全なものとして見る。命題は他の命題との関連で意味を持ってくるのである。必要であれば、関心の度合いに応じて思考の網の目はいくらでも狭めることが出来る。そして、その思考の可能性は言語によって切り開かれる。
もし、あなたがアメリカ人だったら、その言明は "Taro is jiro's brother." と表現するのではないだろうか。もちろん、 "Taro is jiro's elder brother." と表現するかもしれないが、太郎、次郎があなたにとって縁遠い人だったなら、どちらが年上かなどという発想が出てこないということは十分考えられる。しかし、あなたが日本人なら、太郎と次郎の血縁関係を表現するときは、たいていどちらが年長であるかまで問題にする。日本語が゜そういう言語だからである。
言いたいのは、言葉で表現する限りどのような言明も抽象的にならざるを得ない、そしてその抽象度はあなた自身の言語空間によるのだということである。
龍樹なら、太郎は太郎という一言で表せないというだろう。そして、もちろん次郎との関係も兄弟という言葉では表せない。仏教的に言うならば「太郎は太郎にあらず、これを太郎と名づく」 というところである。
諸行無常を原理とする仏教では、個物は水の中の渦のような比較的安定したパターンのようなものに過ぎない。ここで、中村元先生の「論理の構造㊦」P.284 から引用します。
≪古代インドにおいて、仏教の哲学者たちが個物の意義を承認したのは、論理的な意味においてだけであった。かれらにとって個物とは「物そのもの」(自性)であり、経過していく時間のうちにあってある特定の状況におけるある瞬間、または刹那に他ならないのである。それは、極度に具体的にして特殊なものなのである。≫
そして、同様の見解を示す西洋哲学者の例として、デューイの言葉をも引用しています。
≪現実の経験においては、そのような分離した単独の対象あるいは事件なるものは存在しない。対象あるいは事件というものは、常に、われわれをとりまいている経験される世界--状況--の特別の部分、局面、様相に過ぎないのである。単独の対象というものは、全複合体としての環境が提供する使用または享受についてのある問題を決定するに当たって特定の時期にその対象が特に重要な焦点としての地位を取るから、明白にくっきり現れてくるのである。 (デューイ 「行動の論理学 探求の理論」より)≫
ここまで来て、あなたはこういうかもしれない。「なんだかんだ言って、お前も言語によってウィトゲンシュタインにケチつけているんじゃないか。」と。確かにそういう意味では、私もウィトゲンシュタインの手の内にいると言えるかもしれない。私の思考の限界と言語の限界は一致しているというのはそのとおりでしょう。しかし、私の受容している「世界」は、どう考えても言語の限界を明らかに超えている。そのことを指し示すために、龍樹とウィトゲンシュタインの対談をもくろんだのです。
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