ある人から、「君の空観は間違っている。君は実体・実在論者だ。」と言われてしまいました。私は自分は実体論者ではないと考えているが、実在論者であることは否定しません。
実体とは不変の本質を持つものと解釈しています。陽炎は空気の密度のばらつきによる光の屈折の効果によるものであり、そこには実体は存在しない。龍樹が「かげろうのようにみよ」というのは、実体のないのは陽炎だけではない、この世のあらゆるものは実体をもたないのだという意味です。例えば、人間についてよく見てみれば、栄養を外部から取り入れて新陳代謝しており、細胞は絶えず入れ替わっています。何年かすれば、同一人物も物質的には全く違うものになっているわけです。
しかしここで、陽炎も人間も実体をもたないとするのはいいとして、実在しないものとすることには、私は異を唱えたいと思います。あるものをないと言ったら、それは間違いです。錯覚でなければ、陽炎も人間もそこにある、それは否定しようがない。
一般に仏教の空観は、「すべてはまぼろし」のようなニュアンスで受け止められていることが多い。「かげろうのようにみよ」という言葉をそのように受け止めるのは間違いであると私は言いたい。その極に「心頭滅却すれば火自ずから涼し」という言葉がありますが、火にあぶられても涼しいということはあり得ません。禅定も極まれば、「あっちち」という反射を抑え込むことができるのかもしれませんが、どのみち焼かれて死んでしまうのなら、そのような能力に仏教的な価値があるとも思えません。まあ、格好がいいとは思いますが‥。
釈尊はわが子の死を受け入れることのできないキサー・ゴータミーという女性に対し、「身内からひとりも死者を出したことのない家から白いけしの実をもらって飲ませなさい。そうすればその子は生き返るでしょう。」と言いました。「執着を断つ」ということを教え諭したわけですが、決して子を失くした母親の悲しみがうつろなものであるということを説いたわけではありません。世が無常である限り、このような悲しみも受け入れるしかないことを納得させただけのことです。鈴木大拙のような禅の達人でも、親友である西田幾多郎が亡くなった時にはわんわん泣きじゃくったということです。どんなに修業した人でも悲しい時は悲しいのです。
若い女性に抱き着かれて、気分はどうかとたずねられた修行僧が、「古木倚寒厳 三冬無暖気」と答えて、パトロンで゜あるお婆さんにたたき出されてしまった。(参照==>「婆子焼庵」) この僧は空観を「鈍感」になることと勘違いしていたのでしょう。
人は空観によってこの世界は無根拠であることを知ります、しかし、無根拠であるからこそ、ありありと現前する世界が奇跡的であり大いなるものであることを知るのであります。それが「妙」というものでしょう。それをまぼろしのようにはかないものと見るのは、転倒したものの見方というしかないと思うのです。
あえて『この世界は実在する』と言いたいのです。
( 参考 ==> 公案に関する哲学的見解 )
ただ、私は先生と呼ばれるほどのものではありません。哲学を趣味とするただの暇老人ですので、お気楽に接していただければと思います。