マルクス・ガブリエルは、現在最も注目されている若いドイツの哲学者である。その彼は「世界は存在しない」と一見紛らわしいことを言っている。この「世界」については、「私たちが考えているような」という注釈が必要だろう。私たちは、無意識の内に「世界は私たちの知覚とは独立に存在する。」と思い込んでいる。私達に見える「世界」は多種多様である。同じものでも、背景や光の当たり具合で全然別様に見えることがある。時には、山道に落ちている縄が蛇に見えたりもする、というような経験は誰にでもあるだろう。
私たちは、そのようようないろいろの見え方の背後に、一つの整合的な「世界」を推論によって透視するのである。私たちの知覚とは無関係に、あらゆるものが秩序正しくそこには格納されている。いわゆる客観的世界である。そこにはもちろん、山道で見かけた幻の蛇というようなものは存在しない。そのかわり、私達が見たこともないような深海の生物や、私達が生きてる間にはそこからの光が届かないような天体が存在すると考えられる、そういう私たちの経験の埒外なものまでが秩序正しく整合的に存在している、そういう世界観をいつの間にか私たちは抱いてしまうのである。
ガブリエルはそんななにもかもを抱合する一つの「世界」は存在しないというのである。そのかわりに、いろんな見え方そのものの方を肯定する。私達に見えるもの、それらはそれぞれの意味の場において実在すると主張する。 ガブリエルの言っていることは大森荘蔵が言っていることと同じような気がする。大森も世界はいろんな見え方そのものの重ね書きであると述べているが、世界はいろんな意味の場の重層であるとするガブリエルの視点と一致している。あらゆるものがそこに整合的に存在する世界というものも、そういう意味の場において見える一つの見え方に過ぎないのに、それを絶対視することには無理がある。 客観的世界の中では、私達は知覚を通じてしか世界に接することはできないはずなのに、私達の知覚とは独立したすべてを包括する「世界」を想定する、ということに矛盾があるのだろう。
私たちは、そのようようないろいろの見え方の背後に、一つの整合的な「世界」を推論によって透視するのである。私たちの知覚とは無関係に、あらゆるものが秩序正しくそこには格納されている。いわゆる客観的世界である。そこにはもちろん、山道で見かけた幻の蛇というようなものは存在しない。そのかわり、私達が見たこともないような深海の生物や、私達が生きてる間にはそこからの光が届かないような天体が存在すると考えられる、そういう私たちの経験の埒外なものまでが秩序正しく整合的に存在している、そういう世界観をいつの間にか私たちは抱いてしまうのである。
ガブリエルはそんななにもかもを抱合する一つの「世界」は存在しないというのである。そのかわりに、いろんな見え方そのものの方を肯定する。私達に見えるもの、それらはそれぞれの意味の場において実在すると主張する。 ガブリエルの言っていることは大森荘蔵が言っていることと同じような気がする。大森も世界はいろんな見え方そのものの重ね書きであると述べているが、世界はいろんな意味の場の重層であるとするガブリエルの視点と一致している。あらゆるものがそこに整合的に存在する世界というものも、そういう意味の場において見える一つの見え方に過ぎないのに、それを絶対視することには無理がある。 客観的世界の中では、私達は知覚を通じてしか世界に接することはできないはずなのに、私達の知覚とは独立したすべてを包括する「世界」を想定する、ということに矛盾があるのだろう。
禅的視点としての「あるがまま看る」というのも、ガブリエルや大森の言っていることと通じるような気がする。「今」、「ここ」、「自分」という実存的視点から見た世界をそのまま受け入れるということである。
クィーンアン・ヒルからシアトルのダウンタウンを望む。(本文記事とは関係ありません。)