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禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

仏教は無常から始まる

2020-04-18 13:26:01 | 仏教
 前回記事では、ゲシュタルトなどというカタカナの言葉を使って空を説明した。そのことについて違和感を覚えた人もいたのではないかと思う。だが、大乗仏教の祖である龍樹の言葉を忠実にたどるとそういう見解に至るのである。空は決して神秘的な概念ではない。仏教も決して神秘的な教えではない。神秘的なのはこの現実の世界である。

 ゴータマ・シッダールタは王族の子として生まれ何不自由のない暮らしをしていたが、29歳の時無常を感じ出家したと言われている。この「無常」を検索してみると、

 仏教で、一切のものは、生じたり変化したり滅したりして、常住(=一定の
 まま)ではないということ。「―観」。人の世がはかないこと。
 
となっている。 要するに、ものごとは常に変化しているということだが、それがどうして儚いのだろうか? 

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を
 あらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂に
 はほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。 

よく引き合いに出される平家物語の冒頭の一節である。あまりにも美文であるために、無常の儚さがかえって美しいもののように感じられる。文学的には非常にすぐれた作品ではあるが、その儚さが平家の滅亡に焦点が限定されすぎていて、仏教本来の無常観の意味が少しずらされてしまった感がぬぐえない。 

 無常の恐ろしさはいかなる意味においても約束というものがないということにある。西洋的な考え方だと神さまがおられるから、すべては神様の思し召しである。あらゆるものが神さまの差配の許にあり、すべてのことは必然的である。しかし逆に言えば、神さまがいなければなにも保証されていないということになる。すべては偶然的に流動しておりとどまることがない。そうすると、固定された概念というものも成立しない。そういうよりどころのなさが無常である。感受性の強いシッダールタはそこにある種のすさまじさや恐ろしさを感じたのだろう。

 なぜ、無常に不安を感じるのか? それは我々に理性があるからである。理性が整合的な世界観を要請するのである。私たちの理性はあらゆることに理由がないと納得しない。すべてのことに必然的な根拠があるという思い込みがある。しかし、そもそもこの世界があるという最も根源的なことについて根拠が見当たらない。そこに神様の出番がある。最も肝心な一番最初の理由として神様を措定するわけである。だから昔からどの民族にも神様があるわけである。民族によって信じる神様は多様であり、決して普遍的な神様というものは存在しない。しかし、神さまを信じる行為そのものは普遍的である。だから、シッダールタ太子も神様を信じればよかったのだが、どんな神様もケチを付けようと思えばつけられる。必ずどこかに超自然的な物語が付随している。インド人は思弁的である。特に、シッダールタは既成の神様を信じるには知的に過ぎたのだろう。

 では、シッダールタはこの問題をどのように解決したのだろう? 彼はそこに問題など存在しないということに気がついたのである。 理性は惰性によって根源的な理由を求めているに過ぎない。「世界はなぜあるのか?」、「私はなぜ私なのか?」、「私はどこから来て何処へ行くのか?」、このような存在に関する問いに対する解は無い。問いを発しながら、実は自分が何を問うているのかが分かっていない。あるべきはずのない概念に執着していることに気がついたのである。ここに無記という概念が生まれる。 経典に記されていないということから「無記」と言われるが、単に分からないという意味ではなく、問いとして発しないという断念の哲理である。

 この世界が如何なる有り様をしていようと、われわれはあるがまま受け入れするしかない。そういう諦観を得た後にあらためて世界を眺めてみると、 無常の世界は奇跡的な玄妙の世界に転じるのである。栂ノ尾の明恵上人はある時、野のスミレを見つけてはらはらと落涙したという。一輪の小さなスミレがそこに存在する、その不思議が尋常ではない、有難いものと感じたからである。「有難い」とはまさに有ることが難いという意味である。明恵はそこに一輪のスミレの奇跡性を感じ取ったのである。

次回は「無常と空の関係」について考えてみたい。

この世界はまことに玄妙である。 (美ヶ原にて)
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中道とゲシュタルト・チェンジ

2020-04-16 14:12:40 | 哲学
 下の図はご存知の方も多いと思いうが、「ルビンの壺」と呼ばれている。


黒い部分を地とし白い部分を図とすれば壺が見え、逆に白い部分を地とし黒い部分を図と見れば二人の人の顔が見える。決して、壺と人の顔が同時に見えることはない。ゲシュタルトとはドイツ語の「形態」という意味だが、この場合はディスプレイ上のただの白黒模様を、壺あるいは人の顔とみなす「ひとまとまりの形」のことを指す。私たちは常に視界の中からなんらかのパターン(意味)を読み取ろうとしているが、その視点の置き方というものにはある種の恣意性があることを、この図は教えてくれる。時に、私達は同時に同じ景色を見ながら別のものを見ているということがあり得るということだ。

 ゲシュタルトは視覚だけではなく、我々が認識するものすべてにおいて意味として現れる。思想においてもそうである。特にいろんな価値観が競合する倫理問題において、誠実なもの同士に深刻な意見の対立が生じるのも、お互いにゲシュタルトの構成に相違があるからだと考えられる。例えば、捕鯨問題について考えてみましょう。日本側から見ると、欧米人は毎日おびただしい牛や豚をしその肉を食べている、なのにクジラやイルカを殺すのは残酷であるという、これは明らかにダブルスタンダードである。他方、欧米人から見ると、クジラ類はとても知能が高い、イルカショーやホエイル・ウォッチングを通じて、すでに友情のようなものを彼らに対して感じているわけだ。欧米人にとってはクジラ類は犬や猫と同様に共感しあえる動物らしい。人間の友人たるクジラが目の前でもりを打ち込まれて殺戮される。それはとても残酷な仕打ちに見えるわけである。

 捕鯨問題については、一応どちらにも言い分がある。一概にどちらが正しいとは言えない。視点があまりに違いすぎるため、この問題には円満な妥協点というものがみあたらない。おそらく正解というものはない。しかし、どこかで折り合いというものはつけなければならない。どちらも自分の言い分を100%通そうとすれば戦争になってしまう。そうならないためには相手側の言い分も理解できなくてはならない。相手側と自分側の切実さというものをはかりにかけお互いに納得できるための苦渋の決断をしなければならない。

 相手側の立場になって考えてみる。これをゲシュタルト・チェンジと言う。たいていの倫理問題には正解というものない。ゲシュタルト・チェンジを何度も繰り返しながら妥協点を探る、これを反照的均衡と言う。そうするより他はない。釈尊は二千年以上前からそのことを見抜いていた。究極の善もなければ悪も存在しない。善と言うも悪と言うも、それはその時々の都合によるものである。空とはいかなる恣意的視点も持たないことである。恣意的視点が無ければゲシュタルトは構成できない。あらゆるものの相貌が失われ、意味というものがなくなってしまう、それが空である。

 空の立場に立てば、どのような解も正解とは言えない。特定の恣意的視点に基づかない解は存在しないからである。中道とは右と左の真ん中という意味ではない。どのような意見も恣意的視点に基づかないものはないという諦観のことである。釈尊は、「『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。」と仰られた。お釈迦さまのような偉い人でも「これが正しい」などということは言えないというのである。

 無力な私たちが中道から遠ざからないためには反照的均衡を続けるしかないのだろう。
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コロナと共生と言ったら言い過ぎかもしれないが‥

2020-04-14 05:06:23 | 政治・社会
 これほど感染力が強くてしかも気候条件などによる弱点がない、そんなウィルスがあるとは今でも信じられない。正直なところ、梅雨になればウィルスの勢いも治まる、という根拠のない希望的観測を頭から払しょくすることはできないでいる。しかし、現に熱帯の地方でも猛威を振るっている。新型ウィルスがそのような弱点のないものならば、私達は遅かれ早かれ感染する。理論的にそうなるはずなのだという諦観は必要である。今、人との接触を70~80%減と言われているのは、医療崩壊させないために、感染拡大のスピードをコントロール可能なレベルに落とさなければならないという話である。実際には80%減なんて不可能だから、現状維持が精一杯で同じレベルの自粛状態をこれから先もずっと強いられる公算がかなり大きい。だから、安倍さんや小池さんが最初に「この一二週間が瀬戸際」と言った時はとても大きな違和感を覚えた。

 日本人はとても几帳面な部分があるが、それが形式的に流れるとうまくいかない。新型コロナを水際で食い止めるということにこだわり過ぎた。PCR検査で陽性が検出されれば完全隔離しなければならないという方針をとる限り、現場では空きベッド数をにらみながら検査数をコントロールするしか仕方がなくなるのは目に見えていた。結局他国に比べて検査数が極端に少なすぎるという結果になり、みすみす感染者を野放しにしてしまった。不必要に感染者数を増やしてしまう結果になってしまった。それでもイタリアやアメリカのように悲惨な状況になっていないのは、元々清潔好きの国民性で手洗いやマスク着用が浸透していること、キスやハグのような身体的接触が少ないこと、もしかしたらBCG接種、というような好条件が幸いしたのだろう。インフルエンザの罹患率が昨シーズンに比べて激減していることからみても、手洗いとマスクの成果は着実に出ている。

 繰り返して言うが、ワクチンを接種しない限り、どれ程用心しようとも我々はほぼ確実に新型ウィルスに罹患する。理論的に考える限りそうなる。それが遅いか早いかだけの違いである。現段階ではできる限り感染速度を遅くして、医療崩壊を食い止めながら、なんとか日常生活を取り戻すという困難を乗り越えなくてはならない。容易なことではない、それなりの覚悟はしておかなければならない。難儀が続くと不平不満が吹き出し易い、ここにきてDVが増加しているとも聞く、流言飛語の類も増えてくるかもしれない。私たちの品格が問われる時でもある。

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ひまな人だけ読んでください

2020-04-13 10:32:03 | どうでもいいこと
  NHKを見ていると、渋谷の街の中継がよく出てきます。それで昨日は「渋谷109」が映っていたんですが、その時なぜか唐突に、この『109』って「とう・きゅぅ(東急)」のことだと気がついたんです。これって意外と気がついていない人が多いのではないでしょうか? この(自称ですが)勘の鋭い私が何十年間も気がつかなかったくらいですからね。えっ、そんなの常識ですって、ああ、そうですか。 


 上の写真は、長野県松本市の中心街にある橋のたもとにある信号なんですけどね、どうしてこんな写真を載せたかと言うとですね、私は半世紀前に松本に住んでいたんです。それも5年間も。大学生だったんですけどね。普通は4年のところつい5年かかってしまいました。ま、それはどうでもいいんですが、つい最近までこの橋の名前は「ちとせばし」だとばかり思っていたんです。それがこの前、この標識を見て間違っていたことに気がついてしまったのです。半世紀も間違ったままでした。私は勘は鋭いんですけどね、ちょっと迂闊なんです。
 
 話は変わりますが、最近東京新聞に面白いコントが載っていたのでご紹介します。先日、コロナで自粛ブームの中、安倍昭恵夫人が芸能人と“桜を見る会”を開いたと言うので批判されておりました。その時の安倍首相の弁解が、
 
  「妻は花は見ましたが、花見はしておりません。」
 
これ、なかなか面白いですね。首相主催の「桜を見る会」を巡り、安倍さんが追及されてた折に、「幅広く募ったが、募集はしていない」と言いましたが、そのもじりですね。なかなか応用範囲が広いと思います。皆さんも工夫してみて下さい。
 
 政府のコロナ対応を見ていると、なんかうんざりして頭が働きません。つい、しょうもないことを書いてしまいました。
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瀬戸際の次は瀬戸際である

2020-04-11 14:23:55 | 政治・社会
 ほんの少し前まで、安倍さんも小池さんも「この一二週間が瀬戸際」というようなことを言っていたのではなかったか。 あの「瀬戸際」は一体どこへ行ってしまったのか? 先日は緊急事態宣言が発出されて、5月6日まで他人との接触機会を7,8割減らせと言う。「7,8割」がいかなるものかは極めてあいまいだが、その結果5月6日にはどのような判断を下すのだろうか?
 
 5月6日に感染者数が減っていたら、緊急事態宣言を終息させるのか? えっ、そんなことしたら、また感染者数が増加するのではないだろうか? そもそも、一か月後に感染者数が減るなどということが考えられるだろうか? 東京新聞によれば、ある個人病院で働いている女性は「医師が新型コロナを疑い、PCR検査が必要だと判断した患者が三月以降四人いた。しかし、保健所に断られるなどして一人も検査を受けていない。」と憤っている。このことは、森三中の黒沢さんもPCR:検査の要求を何度も断られたという話と符合する。要するに、検査数は意図的に抑制されているのは間違いない。今発表されている感染者数は実態よりかなり少ないはずである。ところが、安倍さんが言うには、これからは検査数を一日2万件に増やすと言っている。そしたら、感染者数は激増するに決まっている。
 
 現時点で実態把握ができていないのだから、判断基準などないのではないか。少なくとも明確な展望を我々に見せてくれてはいない。他国に比べて極端に検査数が少ないことの理由を誠実に語る義務が政治家にはあると思う。そして、あらためて市中感染率の実態調査をするべきだ。それなくして正しい判断は下せないはずである。責任感ある政治家ならそうする筈だと私は考える。
 
 アビガンの認可申請は早ければ6月中に認められるという話だが、それまでは自分たちの不手際のボロが出なければよい、と思っているのだろうとしか考えられない。
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