以下2からのつづきです。
それからの世界は全く違った様に見えた。神はまるで隠れておられる様に見えるけど、事を探るのは王の誉ってある通り王なるイエスが明らかにしてくださるのだ。
彼を通して見ると全ての物に「Made of God」と小さく書かれてあるではないか。なんという自己主張のある不思議なお方。
全てに造り主の御手が感じられた。普通の杉並木も虹色にキラキラ輝いて見えた。
見るもの目に入るモノ全て、「ここにもあなたが造られたものがあります。」と実感した。
風や波や小鳥のサエズリ全てに喜びと感動があった。「ここにもあなたは働いておられますねー」って
会う人あう人「ねえ、人はどうして人なのか知ってますか。」が口癖になった。
ちょっとビビられたり「あんたはそんなの信じるのは弱いからだ」と言われたりしたが喜びがまさっていた。
聖書を読むことが楽しくて読むたび発見があった。信じてからはことばがグイグイと入ってくる。
救われてから2か月程で通読して意外と早く読めるんだと発見。しかも以前とは何だか全く違ってることばが生きている!
その中で気になった言葉があった。「教会」ということばで「礼拝」、とか「交わり」とも関係があるようだ。
私の生まれた地方には「教会」と言われる建物が無かった、もちろんクリスチャンという人にあったことも無い(引っ越していった宣教師は別として)
行ってみたいなよその国~では無いが教会という所に興味がすごく出てきた。
その気持ちに答えてくれたのか、当時の私の電気屋として働く次の現場名に「○○クリスチャンセンター」と書いてあった。
と言う事はおそらくそこの住人又は管理人はクリスチャンだろうと推測し完成引き渡し時にお会いさせてもらい。
「ここは教会ですか。」と聞いた。どうやらそのようだった。向こうから「貴方がクリスチャンである証明をしてください。」と言うので
自分の身に起きた事を話すと一番偉そうな方が「わかりました。」とローマ人の手紙のある所を示して私がそうであると証明して下さった。
「ここでは礼拝をしていますか」と聞くと当たり前だ、みたいな感じで毎日曜日欠かさずやっているとの事。
嬉しくなって「電気の仕事は会社や工場が休みの時しか出来ない時もあり年に何度か出れない時がありますが、後は参加したいのです。私も来てもいいですか。」とお願いした。
すると一番偉そうな方が「それは出来ません。」と答えた。「礼拝はクリスチャンの義務です。来ない時もあると他の人たちのつまずきにもなります。」との事。
その時は、そうなんだ難しいものだなーと思ったがしょうがないと受け取りまた一人聖書を読み進めていた。
でもひと月もするとどうしても「交わり」というのだろうか、神がいる事を話すのはいいのだが、神を知っている人と話がしたくて仕方がなくなってきた。
どうすればいいんじゃと思っていたら聖書の中にヒントがあった。どうやら祈りという方法でほとんど何でも神が叶えてくれるらしいと気づき祈ってみた。
「どうぞクリスチャンという人と出会わせて話をさせて下さい。」と夜に祈った。
次の日、電気の工事写真の現像の為、町唯一のカメラ屋にフィルムを持って行った。(時代を感じさせるな~)
行くと店は開いていたが店の人は誰もいない、ちょっと前からいない様で、すでに先客が一人待っている。(田舎だ)
私は彼の横に座りいつもの話を切り出した。「一体、人はどの様にして人になったんでしょうかね。」と
すると「天地を造った神が人を造られた。」と答えるではないか、「もしや、あなたはクリスチャン?」と聞くと
そうだという「では日曜日とか、教会という所に行っているのか」と聞くと行っているという。
「では、次の日曜、行っても良いか」と聞くと「来てください」とのこと場所は前に断られた集まりとは逆の方にある場所にあるらしく家内の生まれた町だった。
家内に聞くと「そういえばあったみたい」という(早く教えてよ)。田舎は集落が違うと言葉も違うほど文化が守られている。(逆に考えると閉鎖的)
私と家内の町までにはコトバ4つ程離れていた。
次の日曜日教会なる所を子供たちと家内も連れて参加した。
はじめての讃美歌みたいなモノを聞いた「童謡みたいだな」と思った。随分と年寄りばかり5名ほどいた。みんな聖書はボロボロで赤線が引いてある読み込んでるなーって感じがした。
初めてのメッセージも聞いた。何と彼は牧師だったのだ。その後洗礼式もあって、よくわからんが、これはこれでなんかいい。
「来週も来てもいいか」と彼に聞くと「それは出来ません」という。何でって聞くと「実は今日が此処の教会の最後の礼拝なのです」という。
じゃあ、来週から私がするかと思ったが、いろいろ資格(?)などもあって無理らしい(そうなの?)
どうゆうことよ。と神に文句を言うと端折って書くが神は仰せられた「長野へ行け」、、、マジ、、、。
神はマジだった。だから私もその声を聴いてすぐ会社に退職の話をして退園願いを出し、住民票を移転する手続きをして身重の家内と二人の子供を連れて住む当てもなく長野に向かった。
今、振り返ってみて、神は本当にいつも良くしてくださったと感謝する。本家の跡取りの私だったから家族だけでなく親戚も皆集まって反対した。
母などは家内に「こんなアホな男とは、離婚しなさい。」と言ったほどで父に「二度と家の敷居を跨ぐな」と勘当されたが、捨てる父あれば拾う父ありで、車一台で来た私達だが今では車に積めないほど豊かに施して下さった。長野に来て生まれた次女を合わせ3人の子供たちのお蔭もあり孫好きな実父との関係も修復してくださった。
今は下の娘も20才になりこの6月には長女の結婚式でのエスコートを私の父がしてくれる事になった。ヨブは「主は与え主は取られる」と告白している。神とヨブとの関係がそのことばに見える。
聖書の言葉を変えるつもりもないが、個人的には「主は取られ、主は与えられる」とも感じている。
父なる神の一人子イエスキリスト、この方こそ誠の神、私たちの唯一の救い主なのです。