自分って実に不思議だと思う。子供に頃なんで自分は自分なのだろうと思ったことがある。
私は一体なんでここで生まれどこに行くのか、私を私たらしめているモノは何なのかと星を見上げた。
最近、脳科学の本を読んでいて面白いと思ったのは、自分が自分を管理している訳ではないと言う話。
どうゆう事?と言うとそれはまるで、以前聞いたオーケストラの指揮者の話にちょっと似ている。
指揮者がタクトを振る前に実は演奏者は音を出している、でないと音が間に合わないからです。
だったら指揮者はいらないんじゃないかと思うのだが、いた方が都合がいいからいるわけです。
例えば私がコップを持とうとする時、まず脳からコップを持つ指令が出てその後私がそれを決める。
それだと実際に私の意志とずれるのだが、実際に腕が動くまでには時間もかかり、
それを脳の中で私がさもやったように調整するという。(クオリオという)
私の体の中で私は独裁者として君臨し支配しているのではなく、
脳の中で様々な声がある中で多数派や声の大きい意見などで民主主義で決められた事を私が宣言するのだけだという。
そう考えると、「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。
善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」とパウロが書いた事が良くわかります。
コーヒーか紅茶にしようか私が選べないくらいならまだいいのですが、私の救いを私が選べないって問題なんです。
だからこそ「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。」とある通りです。
ただそれだと救われなかった方々には自分の責任が無い、だって自分で選べないのだから、という問題が生まれる。
もちろん神は全ての人にチャンスを与えていると私は思っている。
だからこそどんなに神を冒涜しても赦されますが聖霊を認めないなら赦される事が無いという意味も少し見えてくる。
また、自分で選べないからといって自分に責任が無い訳でもない。
例えばロトはソドムに住んでいて何も神を喜ばす選択は出来なかったのですが、
悪に心から同意する事無く心を痛めていたからこそ義人のリストに彼があるわけだと思う。
この事は私を楽にさせてくれる。何故ならどうせ私は自分で決められないのだから、それをうじうじ悩むことも無い。
だから今、私は私で出来るだけ能天気に楽しく過ごさせてもらっているのだ。
そして神が働かれる所では私を動かす肉の命令を私が死んだと同じように無視するだけでいいのだ。
今までは肉の命令にしてやられていたのですが、これからは脳の命令に対して「ノゥ」と無視すればいいのです。
実に素晴らしい話ですよ。なぜなら私が何もしなければイエスが私の代わりに私の体を自由に使ってくれて
しかも後で私がやった事としてご褒美もしてくださるのだ。
かくして「いつ私がその様な事をしましたっけ」と神に私が答える聖書の話が現実になる。
実にハレルヤなのです。クリスチャン人生はとっても素晴らしいのだ。