6月25日に私の父が逝きました。
このところブログ更新が滞りがちなのもお昼時間にはしょっちゅう日赤病院に通っていたせいもありました。
日赤病院の医師の方、看護師の方々には本当に言い表せないほどのお世話になり、感謝の気持ちでいっぱいです。
父の死に際していろいろな面での思いや気づきがありましたが、今回は病院、医療のことについて書いてみたいと思います。
父は若くして原爆も受けたのに、特に後遺症もなく、89歳の去年の秋までは非常に元気だったのですが10月に白血病と診断され、それから日赤病院に入退院をくりかえしていました。最初の家族面談で余命0.7年と言われた時には、そうはいっても元気そうなので2~3年は生きるのではないか?と思っていたのですが、病院の先生の宣告通りというか・・・
6月の誕生日で90歳になるのでそれまでは生きる!という本人の意思があって、それを越えたところでの大往生となりました。
余命宣告、というと非情なように思いますが、若い人は別として80歳を越えた老齢の人に対する余命宣告は本人にとっても家族や周りの人にとっても”プレゼント”のようなものだなあ、というのが私の感想です。
白血病の発症にさいして担当医師と最初の、本人と家族を交えた面談において私たちは抗がん剤や骨髄移植などの「根本治療はしないで輸血のみ行う」という選択をしました。その場合の余命が0.7年ということでした。
抗がん剤や骨髄移植などいわゆる根本治療をした場合、数ヶ月から1年余命が伸びるかもしれないが、逆に治療のダメージで短くなるリスクもある、という状態では高齢な体にはできるだけ負担はかけずできるだけ自然な状態で死ぬまでは楽に生きてほしいとの願いからでした。
そしてその決定は死というものが「いつ来るかわからない」ものからごく近い半年程度に限定されたという意味を持ちました。
私を含めて誰でも一度は死ぬのですが、いつ来るかわからないものに対してはなかなか準備ができません(笑)
期間限定!となったときにはじめて心構えや気持ちの準備、整理がはじめられるんですね。
おかげさまで心の中で何度もお別れと感謝をささげる時間がありました。
亡くなった当日、病院に駆けつけた時にはすでに息を引き取ったあとでしたが、その顔を見て頭を撫でた時も不思議なくらい心は乱れませんでした。
最後に病院から斎場に移される時、担当の看護師の方々が付き添ってくださり、また担当医師先生までお見送りに来てくださった時に、いきなり涙とともに感謝の気持ちがあふれてきました。先生には「ありがとうございました」としか言えませんでしたが・・・
病院にいる間はすべてお任せしていたのに、父の見舞いに行ったときには父と母しか見ていないので、日赤病院の先生と看護師スタッフの方々に対する感謝が足りませんでした。ブログの紙面からですが、感謝の気持ちを表したいと思います。
お名前をだしていいものかどうかよくわからないのでイニシャルにさせていただきますが、
K先生とかかわってくださった日赤病院のスタッフの方々、本当にお世話になり、ありがとうございました。
おかげさまで父もやすらかに旅立つことができました。