目の前ではコロナだ、ワ〇チンだ、オリンピックだ、それに日々の仕事だ、人付き合いだ、生活だ、なんだかんだ雑多なことが起きています。生きているということはそれらに対応していくということですが、その対応は「自我」というAIのようなものが、ほとんどオートマチックに無意識的にやってくれるので、うまく対応するだけで日々が過ぎ去っているのであれば、魂の成長はまったくありません。
人間の意識、というものは自我を超えたところにあるので、その意識の地点から自我がやっていることを観察し、自我のパターンを見破り、対応している事柄ではなくその時に自分の内側で何が起こっているのか、何を感じているのかを見つめる必要があります。
もし、苦しい感情があるとしたら、目の前の人や出来事によって苦しめられている、としか普通は思えないのですが、意識の位置からその苦しんでいる自分を俯瞰して見ると、自分が自分を苦しめている、としか言いようがないことが見えてきます。
「なんで苦しいの?」って言ったって、自分で自分の首を絞めているから当然苦しいのです。
「どうやったら楽になれるの?」と人に聞くよりも先に、自分の首を絞めている自分の手を離せばいいだけなんです。
自分で絞めている、ということがわかれば簡単なのですが、見えるものは自分以外の外側なので、どうしても他者に、あるいは目の前の出来事に苦しめられているとしか思えない。
それで外側の人や状況を何とかしようとする・・・
そして、どうにもならないどころか、状況はドンドン悪い方向へ進んでいく・・・
自我の位置から見るとそうなのですが、これを意識を超える位置から見ると
「悪い」ということもないことがわかります。
苦しい極限までいかないと「気づき」は起こらないので、苦しむことも悪いことではないからです。
苦しいことが起こるのは、そのことによって自分の内側に気づき、気づくことによって自分自身の呪縛から解放されるための練習問題、天からのプレゼントであるともいえます。
この練習問題をやり続けることで本当の成長につながっていくのだと思います。