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『元帥畑俊六回顧録』軍事史学会編、伊藤隆・原剛監修(錦正社、2009年)

2023-04-09 16:09:47 | 日記
【書評】『元帥畑俊六回顧録』軍事史学会編、伊藤隆・原剛監修(錦正社、2009年)

May 10, 2010

評者:大前信也(同志社女子大学嘱託講師)


軍事史関係史料の翻刻に取り組む軍事史学会が、『機密戦争日誌』(平成10年)、『宮崎周一中将日誌』(同15年)に続く第3弾として公刊したのが本書である。

日本陸軍最後の元帥であった畑俊六が巣鴨在監中に執筆した回顧録と彼の昭和3年から4年、20年から23年の日記からなる。

監修者のひとり、伊藤隆氏のまえがきが示すように、回顧録は誕生から阿部内閣陸相就任までの詳細な回想で、陸軍内の派閥対立から距離をおいていた畑ならではの客観的な記述は、陸軍研究の貴重な資料といえよう。

畑の日誌としては、すでに『続・現代史資料4陸軍 畑俊六日誌』(みすず書房、昭和58年)が刊行されているが、今回の翻刻は同書を補い、これによって畑の全生涯をほぼカバーできることになった。

畑の経歴を概観するには、もうひとりの監修者、原剛氏による詳細な年譜が有益である。

陸士12期の畑は杉山元、小磯国昭、柳川平助らと同期であり、陸大を首席で終えると参謀本部作戦課に配属され、以後欧州駐在や部隊長の期間を除くと一貫して軍令畑を歩み、昭和3年には作戦部長に就いている。

彼を庇護していた兄英太郎が関東軍司令官のまま5年に急逝すると、一転閑職に追いやられるが、宇垣一成の後継者と目されていた兄と異なり、俊六自身は派閥や政治とは距離を置いていたようである。

それが侍従武官長就任につながり、昭和天皇の信任を得て阿部内閣での陸相就任を招くことになる。

次の米内内閣を自らの辞表で倒した後、支那派遣軍総司令官をつとめ、19年6月には元帥に就任、終戦時には第二総軍司令官をつとめていた。

37年に逝去、日本陸軍最後の元帥であった。

ここでは本書の過半を占める回顧録部分を特に先の大戦の敗因分析に注目して取り上げたい。

回顧録部分は「畑俊六回顧録」(5‐231頁)と「敗戦回顧」(469‐480頁)からなる。

そこでは畑の目を通した明治、大正、昭和の陸軍が描かれているとともに、昭和20年12月巣鴨拘置所収容直後から22年暮れにかけての執筆であることから、敗北の原因に繰り返し言及されている。

陸軍最高位の元帥にあった者による敗因の考察がこの回顧録の特徴といえよう。

特に「敗戦回顧」は敗北の理由に的を絞って書かれている。

すなわち、「ここに敗戦の因て来るべき処を深刻仔細に検討して、改むるべきは速かに改め、守るべきは守り、以て再起の資となさざるべからず」との思いで筆を執っていたのである。

日記部分のうち、畑が参謀本部部長だった昭和3‐4年の日記には、山東出兵、済南事件に関する記述が目立ち、田中義一首相と満洲某重大事件、宇垣一成陸相と軍制改革への言及もあって、当時の参謀本部の様子が覗える。

『続・現代史資料』所収分(昭和4‐20年)と合せて検討されるべきであろう。

さて、畑の回想によれば先の大戦の敗因の主たるものは次のようになる。

彼が敗北の最大の原因とするのは陸海軍の対立である。

薩の海軍、長の陸軍より始まる融和の欠如は、作戦構想の不一致、隠し立てを招いたことに加えて、予算を奪い合い、航空機などの技術の共通化が出来ずに経費や資材を浪費したこと、統帥部の合一や空軍創設が海軍の反対で実現しなかったことを指摘する。

そして、陸軍の立場から海軍に対して鋭い批判を投げかけている。

すなわち海軍の陸軍に負けまいとする意識、陸軍主導を恐れる海軍の危惧がこれらの対立の根本にあって敗戦をもたらしたというのである。

畑は満洲事変や漢口作戦の事例を挙げた上で、海軍の便乗主義と責任回避を次のように論難している。

「結果思はしからずと見れば宣伝是努め凡ての責任を陸軍に転嫁したり。
今次の戦争の如き先づ海軍を以て戦はざるべからざること明瞭の事実にして、海軍さへ到底戦争出来ずと云へば勃発すべき筈なきに、主脳部の態度頗不明瞭にして首相一任と言う如き極めて狡猾な態度をとり、悲惨なる敗戦の結果となるや、開戦の責陸軍にありと宣伝是努むるが如き、其心情唾棄すべく武士の風上にも置けぬ代物なりと云ふべし」。

敗戦から間もない時期の執筆だけに戦時の陸海軍間の様々な軋轢の経験がこうした激しい言葉を彼に記させたのであろう。

勿論、畑は陸軍部内の派閥対立や下剋上の悪習も敗戦の原因をなしたのは明らかであると断じている。

長閥とそれへの対抗に始まる派閥抗争は、各派の少壮将校が中心人物をロボット化する事態を招いたが、満洲某重大事件や三月事件の関係者への不十分な処置が上官への軽侮感を促して下剋上を増長させた。

この弊風が顕著であった関東軍が満洲事変を引き起こして政治にも影響を与えるようになったことが、ひいては先の大戦突入の一大原因であると論じられている。

このような陸軍に対して、部内の統制を維持して敗戦まで結束を保った海軍の手際には感嘆のほかないと畑は述べて、先の手厳しい海軍批判との間でバランスをとっている。

彼はその理由を岡田啓介ら海軍長老がよく部内をとりまとめたことに求め、陸軍が宇垣一成らを尊重する雅量に欠けたのと対照的であるとした。

この畑の指摘を待つまでもなく、政戦略の一致に重要な役割を果たすべき陸軍が、もし内部対立を克服できていたとしたら、少なくとも中国との事変の長期化は避けられたであろう。

一方、政治家として敗戦の責を負うべき人物に挙げられているのは近衛文麿である。

その「はっきりしない性情」、「弱い性格」では開戦直前の日米交渉の難局を打開することはできず、嫌気がさすと内閣を投げ出して我が国の施策に一貫性を欠如させたことは、今次の敗因のひとつであるとして畑は我が国政治家の貧弱さを嘆いている。

但し、近衛は陸軍のいうことをよく聞いたので、彼を支持して担ぎ上げた陸軍の責任も浅くはないとの自省も忘れてはいない。

これは陸相経験者による陸軍の政治関与の難しさについての痛切な自己批判でもあろう。

政治に関連して政戦略の不一致も指摘されている。

占領の効果など宣伝価値を優先して戦略の本領を後回しにしたため、兵力の逐次使用など用兵の失敗を招いたが、それは貧弱な政治家が軍部にひれ伏し、陸軍の少壮中堅層が政治を解さないまま宣伝に走った結果とする。

このことは別に述べられている総力戦に備えた戦時体制構築の不十分さとも関係していよう。

大陸での戦いが5年に及び国内が疲弊して厭戦気分も出てきた中で米英との国家総力戦に臨むには、戦争機構の改良進歩が必要であったにもかかわらず、それを怠ったところに失敗の原因のひとつがあったというのである。

陸海の統帥も合一できず、政戦略の歯車も噛み合わないところに近代戦の捷報はもたらされないだろう。

ところで畑俊六は砲兵であった。

工兵と並び技術に親しむ兵科である。

砲工学校ののち帝大員外学生として技術を修める道を採らず陸大での参謀教育を選んだ彼は、技術には詳しくないと謙遜しているが、砲兵監をつとめ更には航空本部長の席にもついている。

そうした畑から見ると、陸海軍や陸軍部内の対立とともに敗戦の一大原因をなしたのは、軍事技術の遅れであり、技術改良への関心の低さであった。

「我国は飛行機にて米国に敗れたるなり。飛行機と電波兵器にて我国は無条件降伏の憂目に遭ひたるなり、窮極する処技術にて破れたるなり」とまで断言している。

日清戦争後の軍備拡張時に量の拡大に追われて質の改良を進めず精神面で補おうとしたが、それで日露戦争に勝利したため方針を変えずに量の拡大に走り、その結果としての兵器の劣等が今次の惨敗を招いたとする。

その背景には陸軍当局の技術に関する認識が至らず、技術制度の抜本的改正を怠ったことや幼年学校から陸大まで技術教育を軽視したことなどがあった。

加えて貧乏国の常として予算に束縛されて列強より遅れた装備で戦わざるをえなかったのは、政治の責任でもあるとの指摘も忘れない。

教育に関連していえば、陸軍大学校が戦術戦略を偏重した教育を続けたことも敗因の一つとされている。

火器や航空機の進歩発達した状況では、統帥も学理的、系統的であるべきであり、総合戦力を発揮するため精密周到な計算に基づく計画が必要となるが、陸大ではこれを軽視する傾向があったという。

そこで養成された幕僚は計画的統帥に疎く、通信や補給がないがしろにされた。

米軍の科学的な作戦計画とは雲泥の差であり、兵器と弾薬と航空機の学理的指揮に圧倒されたのが今次の大戦であったと畑は振り返っている。

彼のいうように、陸大教育での兵站の軽視は補給計画の杜撰さ、すなわち船舶の運用、補充の計算の誤りを招いて補給の断絶を引き起こし、通信への無頓着は作戦連絡の敏活を欠く事態を生じさせて悲惨な敗戦の原因となったのである。

畑の筆がここまで進むと、我が国の国家、社会や文明のあり方といった議論がすぐそばに控えているように思える。

欧米先進諸国に遅れて急速な近代化を進めた極東の島国がたどった隘路と片付けてしまうと、その道程に捧げられたものが見えてこないだろう。

畑は自身の生涯を振り返る中、敗戦の主たる原因を以上のように総括した上で、次のような文章を最後に筆を擱いている。

そこには彼が敗北を糧にして次の世代に伝えようとした教訓が示されているといえよう。

「要するに本戦争に於ては組織的技術的統率に於て敵側に破れたるものにして此原因は上は大本営より下は下級部隊に至るまで計画者指揮官が物的質と量に綿密周到なる計画等に疎く所謂観念的に客観的に物事を計画指導したる結果、万事科学的事務的なる米側に数歩を輸したるものにして、畢竟我国上下一貫する科学的事務的教育の不備を暴露したるものと云ふべし」、

「我国将来の教育は学校と言はず社会と言はず一層事務能率的に教育を刷新するの要あり。之が為には科学的に組織的に物事を観察処理するの習慣を養成教育するの必要最大なりといふべし」。

敗戦間もない時期の悔悟が組織と技術、能率と計画に関する言葉で結ばれているのも、彼らしいところである。畑俊六は生粋の軍人であった。

ここに挙げられたいくつもの敗因は、その後、多くの論者によって指摘されたことでもある。

しかし、陸軍最高位の人物が敗戦直後の回顧の中で率直に述べているというところに本書の特徴があるといえよう。

畑が指摘したことは、例えば海軍側から見るとどうなるのか、政治家はいかに反駁するか、諸外国の事例はどうだったのか、といったことと比較していく必要があろう。

しかし、何よりも興味深いのは畑の回顧から60余年後の現在、ここに指摘された論点がどのように克服されたか、あるいは克服されなかったかということである。

それらの比較と分析と検討は評者を含めた政治史家の今後の課題であろう。



『元帥畑俊六回顧録』

2023-04-09 15:53:42 | 日記
【書評】

『元帥畑俊六回顧録』軍事史学会編、伊藤隆・原剛監修(錦正社、2009年)

May 10, 2010

評者:大前信也(同志社女子大学嘱託講師)


軍事史関係史料の翻刻に取り組む軍事史学会が、『機密戦争日誌』(平成10年)、『宮崎周一中将日誌』(同15年)に続く第3弾として公刊したのが本書である。日本陸軍最後の元帥であった畑俊六が巣鴨在監中に執筆した回顧録と彼の昭和3年から4年、20年から23年の日記からなる。

監修者のひとり、伊藤隆氏のまえがきが示すように、回顧録は誕生から阿部内閣陸相就任までの詳細な回想で、陸軍内の派閥対立から距離をおいていた畑ならではの客観的な記述は、陸軍研究の貴重な資料といえよう。畑の日誌としては、すでに『続・現代史資料4陸軍 畑俊六日誌』(みすず書房、昭和58年)が刊行されているが、今回の翻刻は同書を補い、これによって畑の全生涯をほぼカバーできることになった。

畑の経歴を概観するには、もうひとりの監修者、原剛氏による詳細な年譜が有益である。陸士12期の畑は杉山元、小磯国昭、柳川平助らと同期であり、陸大を首席で終えると参謀本部作戦課に配属され、以後欧州駐在や部隊長の期間を除くと一貫して軍令畑を歩み、昭和3年には作戦部長に就いている。彼を庇護していた兄英太郎が関東軍司令官のまま5年に急逝すると、一転閑職に追いやられるが、宇垣一成の後継者と目されていた兄と異なり、俊六自身は派閥や政治とは距離を置いていたようである。それが侍従武官長就任につながり、昭和天皇の信任を得て阿部内閣での陸相就任を招くことになる。次の米内内閣を自らの辞表で倒した後、支那派遣軍総司令官をつとめ、19年6月には元帥に就任、終戦時には第二総軍司令官をつとめていた。37年に逝去、日本陸軍最後の元帥であった。

ここでは本書の過半を占める回顧録部分を特に先の大戦の敗因分析に注目して取り上げたい。回顧録部分は「畑俊六回顧録」(5‐231頁)と「敗戦回顧」(469‐480頁)からなる。そこでは畑の目を通した明治、大正、昭和の陸軍が描かれているとともに、昭和20年12月巣鴨拘置所収容直後から22年暮れにかけての執筆であることから、敗北の原因に繰り返し言及されている。陸軍最高位の元帥にあった者による敗因の考察がこの回顧録の特徴といえよう。特に「敗戦回顧」は敗北の理由に的を絞って書かれている。

すなわち、「ここに敗戦の因て来るべき処を深刻仔細に検討して、改むるべきは速かに改め、守るべきは守り、以て再起の資となさざるべからず」との思いで筆を執っていたのである。

日記部分のうち、畑が参謀本部部長だった昭和3‐4年の日記には、山東出兵、済南事件に関する記述が目立ち、田中義一首相と満洲某重大事件、宇垣一成陸相と軍制改革への言及もあって、当時の参謀本部の様子が覗える。『続・現代史資料』所収分(昭和4‐20年)と合せて検討されるべきであろう。

さて、畑の回想によれば先の大戦の敗因の主たるものは次のようになる。

彼が敗北の最大の原因とするのは陸海軍の対立である。

薩の海軍、長の陸軍より始まる融和の欠如は、作戦構想の不一致、隠し立てを招いたことに加えて、予算を奪い合い、航空機などの技術の共通化が出来ずに経費や資材を浪費したこと、統帥部の合一や空軍創設が海軍の反対で実現しなかったことを指摘する。

そして、陸軍の立場から海軍に対して鋭い批判を投げかけている。

すなわち海軍の陸軍に負けまいとする意識、陸軍主導を恐れる海軍の危惧がこれらの対立の根本にあって敗戦をもたらしたというのである。

畑は満洲事変や漢口作戦の事例を挙げた上で、海軍の便乗主義と責任回避を次のように論難している。

「結果思はしからずと見れば宣伝是努め凡ての責任を陸軍に転嫁したり。今次の戦争の如き先づ海軍を以て戦はざるべからざること明瞭の事実にして、海軍さへ到底戦争出来ずと云へば勃発すべき筈なきに、主脳部の態度頗不明瞭にして首相一任と言う如き極めて狡猾な態度をとり、悲惨なる敗戦の結果となるや、開戦の責陸軍にありと宣伝是努むるが如き、其心情唾棄すべく武士の風上にも置けぬ代物なりと云ふべし」。

敗戦から間もない時期の執筆だけに戦時の陸海軍間の様々な軋轢の経験がこうした激しい言葉を彼に記させたのであろう。

勿論、畑は陸軍部内の派閥対立や下剋上の悪習も敗戦の原因をなしたのは明らかであると断じている。

長閥とそれへの対抗に始まる派閥抗争は、各派の少壮将校が中心人物をロボット化する事態を招いたが、満洲某重大事件や三月事件の関係者への不十分な処置が上官への軽侮感を促して下剋上を増長させた。

この弊風が顕著であった関東軍が満洲事変を引き起こして政治にも影響を与えるようになったことが、ひいては先の大戦突入の一大原因であると論じられている。

このような陸軍に対して、部内の統制を維持して敗戦まで結束を保った海軍の手際には感嘆のほかないと畑は述べて、先の手厳しい海軍批判との間でバランスをとっている。

彼はその理由を岡田啓介ら海軍長老がよく部内をとりまとめたことに求め、陸軍が宇垣一成らを尊重する雅量に欠けたのと対照的であるとした。

この畑の指摘を待つまでもなく、政戦略の一致に重要な役割を果たすべき陸軍が、もし内部対立を克服できていたとしたら、少なくとも中国との事変の長期化は避けられたであろう。

一方、政治家として敗戦の責を負うべき人物に挙げられているのは近衛文麿である。

その「はっきりしない性情」、「弱い性格」では開戦直前の日米交渉の難局を打開することはできず、嫌気がさすと内閣を投げ出して我が国の施策に一貫性を欠如させたことは、今次の敗因のひとつであるとして畑は我が国政治家の貧弱さを嘆いている。

但し、近衛は陸軍のいうことをよく聞いたので、彼を支持して担ぎ上げた陸軍の責任も浅くはないとの自省も忘れてはいない。

これは陸相経験者による陸軍の政治関与の難しさについての痛切な自己批判でもあろう。

政治に関連して政戦略の不一致も指摘されている。

占領の効果など宣伝価値を優先して戦略の本領を後回しにしたため、兵力の逐次使用など用兵の失敗を招いたが、それは貧弱な政治家が軍部にひれ伏し、陸軍の少壮中堅層が政治を解さないまま宣伝に走った結果とする。

このことは別に述べられている総力戦に備えた戦時体制構築の不十分さとも関係していよう。

大陸での戦いが5年に及び国内が疲弊して厭戦気分も出てきた中で米英との国家総力戦に臨むには、戦争機構の改良進歩が必要であったにもかかわらず、それを怠ったところに失敗の原因のひとつがあったというのである。

陸海の統帥も合一できず、政戦略の歯車も噛み合わないところに近代戦の捷報はもたらされないだろう。

ところで畑俊六は砲兵であった。

工兵と並び技術に親しむ兵科である。砲工学校ののち帝大員外学生として技術を修める道を採らず陸大での参謀教育を選んだ彼は、技術には詳しくないと謙遜しているが、砲兵監をつとめ更には航空本部長の席にもついている。

そうした畑から見ると、陸海軍や陸軍部内の対立とともに敗戦の一大原因をなしたのは、軍事技術の遅れであり、技術改良への関心の低さであった。

「我国は飛行機にて米国に敗れたるなり。飛行機と電波兵器にて我国は無条件降伏の憂目に遭ひたるなり、窮極する処技術にて破れたるなり」とまで断言している。

日清戦争後の軍備拡張時に量の拡大に追われて質の改良を進めず精神面で補おうとしたが、それで日露戦争に勝利したため方針を変えずに量の拡大に走り、その結果としての兵器の劣等が今次の惨敗を招いたとする。

その背景には陸軍当局の技術に関する認識が至らず、技術制度の抜本的改正を怠ったことや幼年学校から陸大まで技術教育を軽視したことなどがあった。

加えて貧乏国の常として予算に束縛されて列強より遅れた装備で戦わざるをえなかったのは、政治の責任でもあるとの指摘も忘れない。

教育に関連していえば、陸軍大学校が戦術戦略を偏重した教育を続けたことも敗因の一つとされている
器や航空機の進歩発達した状況では、統帥も学理的、系統的であるべきであり、総合戦力を発揮するため精密周到な計算に基づく計画が必要となるが、陸大ではこれを軽視する傾向があったという。

そこで養成された幕僚は計画的統帥に疎く、通信や補給がないがしろにされた。米軍の科学的な作戦計画とは雲泥の差であり、兵器と弾薬と航空機の学理的指揮に圧倒されたのが今次の大戦であったと畑は振り返っている。

彼のいうように、陸大教育での兵站の軽視は補給計画の杜撰さ、すなわち船舶の運用、補充の計算の誤りを招いて補給の断絶を引き起こし、通信への無頓着は作戦連絡の敏活を欠く事態を生じさせて悲惨な敗戦の原因となったのである。

畑の筆がここまで進むと、我が国の国家、社会や文明のあり方といった議論がすぐそばに控えているように思える。

欧米先進諸国に遅れて急速な近代化を進めた極東の島国がたどった隘路と片付けてしまうと、その道程に捧げられたものが見えてこないだろう。

畑は自身の生涯を振り返る中、敗戦の主たる原因を以上のように総括した上で、次のような文章を最後に筆を擱いている。

そこには彼が敗北を糧にして次の世代に伝えようとした教訓が示されているといえよう。

「要するに本戦争に於ては組織的技術的統率に於て敵側に破れたるものにして此原因は上は大本営より下は下級部隊に至るまで計画者指揮官が物的質と量に綿密周到なる計画等に疎く所謂観念的に客観的に物事を計画指導したる結果、万事科学的事務的なる米側に数歩を輸したるものにして、畢竟我国上下一貫する科学的事務的教育の不備を暴露したるものと云ふべし」、

「我国将来の教育は学校と言はず社会と言はず一層事務能率的に教育を刷新するの要あり。之が為には科学的に組織的に物事を観察処理するの習慣を養成教育するの必要最大なりといふべし」。

敗戦間もない時期の悔悟が組織と技術、能率と計画に関する言葉で結ばれているのも、彼らしいところである。畑俊六は生粋の軍人であった。

ここに挙げられたいくつもの敗因は、その後、多くの論者によって指摘されたことでもある。

しかし、陸軍最高位の人物が敗戦直後の回顧の中で率直に述べているというところに本書の特徴があるといえよう。

畑が指摘したことは、例えば海軍側から見るとどうなるのか、政治家はいかに反駁するか、諸外国の事例はどうだったのか、といったことと比較していく必要があろう。

しかし、何よりも興味深いのは畑の回顧から60余年後の現在、ここに指摘された論点がどのように克服されたか、あるいは克服されなかったかということである。

それらの比較と分析と検討は評者を含めた政治史家の今後の課題であろう。



日銀の植田和男総裁へ「私の注文」 中曽宏氏ら4氏語る

2023-04-09 14:04:04 | 日記
日銀の植田和男総裁へ「私の注文」 中曽宏氏ら4氏語る

中曽宏氏/新浪剛史氏/仲田泰祐氏/ビル・ダドリー氏

時論・創論・複眼2023年4月9日 2:00 

多様な観点からニュースを考える
永浜利広さんの投稿

【この記事のポイント】

・金利に下げ余地がない中では金融政策には限界がある
・正常化の過程では混乱回避のため市場との対話重視を
・日銀の片翼飛行から抜け出し政府との二人三脚に期待
植田和男総裁による日銀の新体制が発足した。過去10年にわたる異次元の金融緩和の正常化が焦点となる。長期金利操作やマイナス金利などの政策には副作用も目立ってきた。物価や賃金が安定して上昇し、経済が成長する道筋をどのように描くか。植田日銀への注文を聞いた。
◇   ◇   ◇
正常化戦略、事前説明を 大和総研理事長・中曽宏氏
なかそ・ひろし 1978年東大経卒、日銀入行。13年副総裁、18年現職。金融危機対応の経験が豊富で、広い海外人脈も持つ
異次元金融緩和の総括をする際は、大胆な緩和を求め異論も許さない空気すらある中でこの政策が始まった事実を認識しておく必要がある。
日本が物価の継続的下落という意味でのデフレでなくなった点で、政策は一定の成果を上げた。
それでも2%物価目標は持続的・安定的な形での達成には至っていない。長年の低い物価上昇率に強く影響され予想物価上昇率がなかなか上がらなかったためだ。結果として緩和は長引き、金融機関の収益圧迫や債券市場の機能低下といった副作用も大きくなった。
長期金利操作は緩和の持続性を高めた。その副作用の大きさは、政策効果が経済へ波及している表れという面もある。日銀の新体制は適切なタイミングで修正・撤廃するのではないか。
その後の課題はマイナス金利政策解除であり、本格的な金融政策正常化の始まりになる。需給ギャップの改善や賃金の持続的な上昇が明確になり、2%の物価上昇率も持続するモメンタムが確認されたら日銀が適切に判断するだろう。
最近では物価・賃金情勢に従来になかった変化の兆しが出ている。政府の成長戦略も加わりこうした動きに持続性が伴えば、正常化の展望が見えてくる。
金融政策が緩和方向の時は、ある程度サプライズを演出して政策効果を高めようとした面があった。正常化への過程では意図せざる混乱回避のため市場との対話を重視すべきだ。
金融政策決定会合で何をやるかの手の内を事前に明かす必要はないにしても、正常化をどんな手順で進めるか、いかなる手法でやるかという基本戦略はあらかじめ説明した方がいい。米連邦準備理事会(FRB)が2014年にそうしたものを公表したのは、参考になり得る。
最近の米欧の金融不安については、日銀の金融政策への影響は今のところない。ただ、長期にわたった大規模緩和の巻き戻しの影響が出てくるのはこれからだ。日本も含め金融システムや経済への影響を見極めないといけない。金融規制をめぐる国際的議論の行方にも注意を払うべきだ。(聞き手は清水功哉)
◇   ◇   ◇
共同声明で賃上げ促せ サントリーホールディングス社長・新浪剛史氏
にいなみ・たけし ローソン社長などを経て2014年にサントリーホールディングス社長。27日に経済同友会代表幹事に就任予定
世界でインフレが進むなか、日本は賃金が上がらず、物価も上がらないというデフレのノルム(社会通念)を払拭するティッピングポイント(転換点)にある。このタイミングで植田和男氏が日銀総裁に就いた意味は大きく、今後のかじ取りは重要だ。
黒田東彦前総裁の10年間はデフレの社会通念が消えず、経営者も賃金を上げることが難しかった。現在は世界中で物価が上がり、金利も上昇するなど、風景が大きく変わった。
賃上げなど人材への投資ができない企業は、社員や社会から評価されないという危機意識を経営者が持つようになっている。サントリーホールディングスは今年の春季労使交渉で平均7%の賃上げを妥結した。
異次元緩和が続いた10年間で民間からアニマルスピリッツが失われたのではないかと危惧している。だが現在はヘルスケアや脱炭素、農業などの成長分野に投資しようと企業も前向きになっている。こうした企業の投資意欲をさらに高める必要がある。
企業が賃上げにも取り組むなか、(政府と日銀が13年に2%の物価目標を定めた)共同声明(アコード)は見直すべきだ。この10年間で日銀の力だけでは目標達成が難しいこともわかった。2%の物価目標は維持しながら、政府の役割として賃金を上げるための経済運営を新しいアコードに明記すべきだ。
政府は、日本国内への投資を促す仕組みづくりが求められる。例えば3年間といった期間を区切り、国内投資に対しての大幅減税に踏み切ることなどが考えられるだろう。国内投資に伴いイノベーションが促され、人材育成も進んだり、雇用も生まれたりする。結果的には、外国企業による日本への投資も増えるのではないか。
日銀の片翼飛行から脱し、政府と日銀がそれぞれの役割を担う二人三脚に期待している。長期金利を日銀がコントロールし続けることには無理があり、政府と連携して異次元緩和の出口への道筋をつくるべきだ。財政規律を緩めるのではなく、日本経済を民需主導に変えなければならない。(聞き手は遠藤邦生)
◇   ◇   ◇
予測可能な政策決定に 東大准教授・仲田泰祐氏
なかた・たいすけ 2012年ニューヨーク大博士。米連邦準備理事会(FRB)調査部主任エコノミストなどを経て、20年現職
今回の日銀総裁人事で、ベストの人材を従来よりも幅広い候補者の中から選ぶことを実践できたのは良かった。これまで日銀や財務省の出身者の起用が慣行化していたかもしれないが、今後はそういう制約にとらわれずに選べばいい。今回はベストの人材が学者だったが、次もそうとは限らない。重要なのは幅広い選択肢から選ぶことだ。
過去10年の異次元金融緩和については、様々な論文で色々なメリットとデメリットが指摘されているものの、それらが具体的にどれくらい大きいのかはあまり整理されていない。現時点で効果と副作用のどちらが大きかったかは客観的に答えられない。
そのうえで、日銀の新体制の課題とも関連する論点についてコメントする。まず2%の物価目標に関しては、2%が世界標準だから導入すれば好循環が生まれるといった議論が多かった。それは正しいかもしれないが、2%達成がどこまで日本経済の成長にプラスになるかはあまり自明でない。もともと物価目標はデフレではなくインフレの防止策として導入された歴史的経緯も知っておきたい。
また長期金利や株価にしても、人為的な力が加わり価格機能が低下したとすれば、経済学者としては気持ち悪いというのはある。
サプライズ的な政策決定が多用されてきた点は、サプライズをできるだけ無くす米国とは好対照だ。どちらがいいか簡単には言えないが、一般論として不確実性は経済に良くない。説明責任を果たし共感を得るのは重要で、なるべく政策を予測可能なものにしたほうがよさそうだ。
日本は金融政策以外にやるべき事柄が多いというのが、3年前に20年ぶりに日本に帰ってきて実感した点だ。日本経済の成長率が低い主因は低い潜在成長率なのだから、それを高めるために非効率を減らし、生産性を上げるべきだ。手段はデジタル化や労働市場の流動化、テレワーク、海外人材の活用など山ほどある。
金融政策は本来強力な政策手段だが、金利の下げ余地があまりない中で多くのことはできない。過大な期待は修正されたほうがいい。(聞き手は清水功哉)
◇   ◇   ◇
2%目標は維持が妥当 ニューヨーク連銀前総裁 ビル・ダドリー氏
William C. Dudley 2009〜18年ニューヨーク連銀総裁。米プリンストン大の経済政策研究所シニア・リサーチ・スカラー
日銀を10年間率いた黒田東彦氏は、日本のインフレ予想を押し上げ、(利下げ余地がなくなる)ゼロ金利制約から抜け出すために必要な環境を整えることに強くコミットしていた。そのために続けてきた金融緩和は、最終的には成功するだろうと考える。
ただ、日銀が(これまでの大量購入で)国債市場において大きな役割を占める状況やイールドカーブ・コントロール(長短金利操作)をどのように正常化するかを見極める必要がある。現時点で黒田緩和の業績を評価するのは時期尚早だ。
足元の日本の物価上昇率は確かに高まっているが、重要なのは中長期的に2%の物価上昇が起きると家計や企業が確信し、インフレ予想が変化することだろう。一般的に2%の物価上昇を達成するには3%以上の賃上げが必要だ。日銀は物価の上昇がインフレ予想と賃金の上昇につながるかを確認しようとしている。
植田和男総裁が長期金利のゼロ%程度への誘導策やマイナス金利政策をいつ解除するかは、経済見通しによって変わる。長短金利操作の必要性はかなり低くなり、2%の物価目標達成に向けた進展もみられる。現時点で日本への影響は小さいとみるが、米欧の銀行業界で生じた混乱の影響の見極めも必要だ。
過去15〜20年間の日本で驚いたのは、国内総生産(GDP)比で高水準の債務を抱えているにもかかわらず、これまでのところ財政が持続可能だったことだ。日本の国債は多くを自国の投資家が保有し、外国人にさほど依存していないのが大きい。日本の財政状況が、日銀の目標達成や政策を妨げることはないだろう。
日本が今後も2%の物価目標を維持するのは妥当だ。金融環境が緩和的か引き締め的か決めるのは名目金利からインフレ予想を差し引いた「実質金利」だ。インフレ予想がゼロだと名目金利をさほど上げられず、経済が悪化した際に利下げする余地が限られる。先進国では2%よりさらに高い目標を掲げるべきか議論の余地があるが、まだ明確に2%目標を達成できていない日本では早計だ。(聞き手はニューヨーク=斉藤雄太)
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〈アンカー〉成長を支える 頼れる脇役へ
異次元緩和10年の経験は金融政策の限界を示した。企業収益や雇用環境の改善などで一定の効果はあったが、日本経済の実力を上げ人々が十分に豊かさを感じられるようにしたかは疑問だ。10年前に0.9%程度あった日本の潜在成長率(日銀推計値)は2022年10〜12月期に0.3%程度に低下した。主役になるべきなのは金融政策でなく成長戦略ということだろう。
むろん金融政策の役割が消えるわけではない。成長力強化に向けた政府や企業の努力を緩和的な金融環境を整えて支援する姿勢は当面必要だ。大震災などの危機発生時には潤沢な資金供給で対応することも欠かせない。一方で緩和策の円滑な継続のためには副作用を軽くする政策修正も意味を持つ。新総裁のもと金融政策は頼りになる脇役として経済を支え続け、将来の政策正常化への道も開いてほしい。
(編集委員 清水功哉)

韓国、「サムスン」営業益激減、コリア経済旗艦だけに大きな衝撃「我が国は大丈夫か」

2023-04-09 11:35:56 | 日記
韓国、「サムスン」営業益激減、コリア経済旗艦だけに大きな衝撃「我が国は大丈夫か」

2023年04月09日

  • 韓国経済ニュース時評アジア経済ニュース時評

   

本欄は、長年にわたり「サムスンこけたらどうなるか」という設問を投げかけてきたが、現状はまさにこういう局面になった。

韓国が、世界に誇る企業はサムスン1社である。

その旗艦が、「エンジン不調」で国内はしょんぼりしているのだ。

『朝鮮日報』(4月8日付)は、「サムスン電子の業績ショック、最後の砦が揺らいだら韓国経済はどうなるのか」と題する社説を掲載した。

(1)「サムスン電子は、今年1~3月期の営業利益が前年同期比で96%減の6000億ウォン(約600億円)を計上した。

部門ごとの決算は公表されなかったが、半導体部門で約4兆ウォン(約4000億円)の損失が出たことが主な原因とされている。

サムスン電子の営業利益が1兆ウォン(約1000億円)を下回ったのは2009年の1~3月期以来14年ぶりだ。

韓国を代表する企業がリーマンショック当時と同じレベルの衝撃に直面しているのだ」

サムスン電子の営業利益が1兆ウォン(約1000億円)を下回ったのは2009年の1~3月期以来14年ぶりだ。

2009年は、リーマンショックが起こった時期である。

韓国経済が経済危機に見舞われた時でもあり今、国内が緊張するのは当然であろう。

今回のサムスン半導体部門の赤字は、サムスンが自ら作り出した赤字とも言える。

同業他社が減産して市況立て直しに動いているとき、サムスンは減産せず市況悪化に拍車を掛けたのだ。

サムスンの計算違いも影響している。オウンゴールである。

(2)「今月下旬に決算発表を予定しているSKハイニックスについても市場関係者は「4兆ウォン(約4000億円)前後の損失」を予想している。

半導体の売り上げがほぼ全体を占めるため、これがそのまま会社全体の赤字につながる見通しだ。

これまで持ちこたえてきたサムスン電子もSKハイニックスに続き減産を宣言した。

半導体景気の低迷が続くため、ここ1年に40%下落したDRAM価格を下支えするための決断だ。

しかし世界の半導体需要の回復は4~6月期には望むべくもなく、下半期の状況を見守るしかない状況だ。

韓国で製造業全体の10%、輸出の20%を占める半導体の1位と2位のメーカーが、ここ10年以上経験したことのなかった危機に直面しているのだ」

サムスンに次ぐ半導体メーカーのSKハイニックスは、サムスンより一足早く赤字に陥っている。

経営体質が脆弱だけに、SKハイニックスの受けた傷は深い。

サムスンは、SKハイニックスをさらに販売シェア面で引き離そうという「野望」を持っていたはずだが、寡占が成立している現在、この戦略によって自らも深い傷を負った。サムスンの経営戦略の失敗だ。

(3)「巨額の赤字を出した韓国の半導体業界は、米中の技術開発競争のど真ん中で地政学的なリスクにも直面している。

サムスン電子とSKハイニックスはNANDフラッシュやDRAMの生産全体の40~50%を中国工場が占めており、その投資額は33兆~35兆ウォン(約3兆3000億~3兆5000億円)に達する。

米国は先日のCHIPSプラス法指針に基づき、一定の条件で10年にわたり中国国内で安定して工場を稼働できるようにした。

しかし米国による中国抑え込み政策が終わらない限り、韓国半導体メーカーの中長期的な「中国リスク」は今後も避けられないだろう」

米中対立の煽りで、韓国はいずれ中国から半導体生産基地を引き揚げる局面になろう。

韓国2社は、中国で約3兆3000億~3兆5000億円もの巨額投資を行っている。

この投資をいかに償却するかという難問が控えているのだ。

そうであれば、サムスンは体力を消耗しないように、早く減産に踏み切るべきであった。無用なシェア争いにこだわっていたのだ。

(4)「韓国経済は、国内外のどこにも頼るべきところがない状況に直面している。

今年1~2月の経常収支は11年ぶりに2ヶ月連続の赤字を記録し、輸出は6ヶ月連続でマイナスとなった。

景気の後退と資産市場の不振で今年は4年ぶりに税収が減少し、国の負債は1100兆ウォン(約110兆円)を上回るのが確実視されている。

物価は高止まりしているが、家計負債と金融不安でこれ以上金利を上げるのも難しい」

このパラグラフは深刻である。

韓国は、左派の暴走で日韓離反を策して大騒ぎしている。

客観的に見た韓国経済は、まさに「頼るべき先がない」状況だ。余りにも反日をやり過ぎたのだ。

(5)「企業が置かれた状況も厳しい。

半導体はもちろん電気やエレクトロニクス、鉄鋼、石油化学、精油など主力企業も1~3月期の営業利益が大幅に減少あるいは赤字を記録しそうだ。

危機に直面した国の経済を支えてきた韓国を代表する企業さえ揺らいでいる。こんな状況で重大災害処罰法など反企業的な政策で追い打ちをかけても良いのか」

韓国の不幸は、左右両派の対立が激しすぎることだ。もはや、妥協の余地がないほどの感情的対立になっている。日本は、傍観するほかない。