中部ソロモン諸島(ニュージョージア諸島)の戦い[編集]
日本軍のガダルカナル島撤退後、連合軍の進撃は次の作戦(カートホイール作戦)の準備と休養のため小休止となり[7]、日本軍は中部ソロモン諸島と東部ニューギニアの防衛の強化に努めた。
ただ、この間も戦闘は続いており、その主なものはラバウルからニューギニアへ向かっていた日本の輸送部隊の壊滅(ビスマルク海海戦)、日本軍による連合軍に対する大規模な航空作戦(い号作戦)、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死(海軍甲事件)である。
連合軍は小休止のあと、南太平洋方面の日本軍の一大拠点ラバウルに向けてソロモン諸島とニューギニアの両方から前進を開始する(カートホイール作戦)。
ソロモン諸島方面の連合軍の最初の行動は中部ソロモンのニュージョージア島のムンダ飛行場の奪取を目的としたものである。
以後のこの海域の戦いは、ソロモン諸島沿いにラバウルに向かうアメリカ軍が飛行場を確保するために行った作戦と、これに反撃する日本軍の間で発生した戦闘である。
ニュージョージア島・レンドバ島[編集]
詳細は「ニュージョージア島の戦い」を参照詳細は「レンドバ島の戦い(英語版)」を参照日本軍はガダルカナル島での戦いを支援するため、1942年12月にニュージョージア島のムンダに飛行場を建設した。
ガダルカナル島撤退後、日本軍はソロモン方面の防衛線を中部ソロモンとすることに決定し[8][9]、ニュージョージア島やそのすぐ北にあるコロンバンガラ島の戦力増強を続けた。
アメリカ軍はニュージョージア島の日本軍のムンダ飛行場を占領して自軍の飛行場とするため、その準備作戦として1943年6月30日、ムンダの対岸のレンドバ島に上陸した。
続いて、7月5日にニュージョージア島に上陸し、8月5日にムンダを占領した。残存の日本軍は同月下旬にコロンバンガラ島へ撤退した。
アメリカ軍のニュージョージア島上陸からムンダ飛行場占領までの経過は順調なものではなく、事前計画より多くの日数と損害を強いられることになった。
ジャングルを通って敵飛行場に接近し占領するという困難な問題(ガダルカナル島で日本軍が解決できなかった問題[10])を経験したアメリカ軍は、この苦い経験によりその後の作戦計画を修正することになる。
また、1943年8月にアメリカ軍統合参謀本部が発表した指令書は「ラバウルは占領するよりもむしろ無力化すべきである」と述べている[11]。
ベララベラ島・コロンバンガラ島[編集]
詳細は「ベララベラ島の戦い(英語版)」を参照アメリカ軍の最初の計画は日本軍のコロンバンガラ島のビラ飛行場の占領であったが、ニュージョージア島攻略の苦い経験から日本軍の防備が厚いコロンバンガラ島への侵攻は止め、代わりに防備が薄いベララベラ島に飛行場を建設することにした[12][13]。
1943年8月15日、アメリカ軍は同島の南部に上陸した。島には少数の日本軍しかおらず、増援部隊が送られたが大きな戦闘は発生しなかった。
ベララベラ島がアメリカ軍に占領されたことで、コロンバンガラ島の日本軍は連合軍に包囲されて孤立することになり、9月28日~10月2日に日本軍のコロンバンガラ島からの撤退作戦(セ号作戦)が行われた。
ベララベラ島にいた約600名の日本軍は、10月6日に島から撤退した。これにより連合軍は中部ソロモンへの進撃を達成し、次は北部ソロモンのブーゲンビル島を目指すことになる。
北部ソロモン諸島(ブーゲンビル島)の戦い[編集]
ブーゲンビル島[編集]
詳細は「ブーゲンビル島の戦い」を参照1943年4月7日、ブインからサボ海峡を航行する空母を始めとする連合軍艦隊への出撃に向かう瑞鶴航空隊北部ソロモンのブーゲンビル島では日本軍はブイン等に飛行場を建設し、ガダルカナル島の戦いのときはガダルカナル島への中継基地として活用した。
また、コロンバンガラ島からの撤退が行われた頃に策定された絶対国防圏構想では、ソロモン方面の前衛線はブーゲンビル島とした[14]。
アメリカ軍はラバウルに向けてさらに前進するためにブーゲンビル島に飛行場を必要としたが、ニュージョージア島攻略の苦い経験から、ブーゲンビル島の日本軍飛行場は占領せず、同島に新たな飛行場を建設することにした。
飛行場建設地はタロキナに決定し[15]、1943年11月1日、アメリカ軍は同島のタロキナ岬に上陸した。日本軍は上陸したアメリカ軍に対し攻撃(第一次タロキナ攻撃)を行ったが失敗に終わり、12月にタロキナに飛行場を完成したアメリカ軍は以後、それまでを大きく上回る規模でラバウルの空襲を行った[16]。
翌年3月に日本軍は再びタロキナを攻撃(第二次タロキナ攻撃)したがこれも失敗し以後、日本軍は食糧不足と熱帯病のためその状況は「墓島」と呼ばれるものになった。
戦闘(オーストラリア軍による掃討と日本軍の抵抗)は終戦まで続き、日本軍は1945年9月3日に降伏した。
グリーン島[編集]
詳細は「グリーン諸島の戦い」を参照連合軍は飛行場の建設を目的として、1944年2月15日にグリーン島(ラバウルの東、ブーゲンビル島の北西)に上陸した。
島には約100名の日本軍がいたが玉砕した。飛行場は3月4日に完成し、連合軍の航空基地からラバウルまでの距離はブーゲンビル島のタロキナに比べ、半分の約200kmとなった[17]。
主な戦い[編集]
ソロモン諸島とその周辺海戦の丸括弧内は連合軍における呼称。1943年(昭和18年)
- 3月2日~3日 - ビスマルク海海戦(ソロモン諸島ではなく、ニューギニア方面での戦闘)
- 3月5日 - ビラ・スタンモーア夜戦
- 4月7日~14日 - い号作戦・フロリダ沖海戦 (ソロモン諸島と、ニューギニア方面での戦闘)
- 4月18日 - 山本五十六連合艦隊司令長官戦死
- 5月8日 - 日本海軍の駆逐艦三隻が触雷により全滅
- 6月7日~16日 - ルンガ沖航空戦
- 6月30日 - アメリカ軍がニュージョージア島の対岸のレンドバ島に上陸
- 7月5日 - クラ湾夜戦(クラ湾海戦)
- 7月12日 - コロンバンガラ島沖海戦(コロンバンガラ海戦)
- 8月6日 - ベラ湾夜戦(ベラ湾海戦)
- 8月15日 - アメリカ軍がベララベラ島に上陸
- 8月17日 - 第一次ベララベラ海戦(ホラニウ海戦)
- 8月30日 - 日本軍がニュージョージア島から撤退
- 9月28日~10月2日 - 日本軍がコロンバンガラ島から撤退(セ号作戦)
- 10月6日~7日 - 日本軍がベララベラ島から撤退
- 10月6日 - 第二次ベララベラ海戦(ベララベラ海戦)
- 11月1日 - アメリカ軍がブーゲンビル島のタロキナに上陸
- 11月2日 - ブーゲンビル島沖海戦(エンプレス・オーガスタ湾海戦)
- 11月5日~12日 - ろ号作戦(第一次~第三次ブーゲンビル島沖航空戦)
- 11月5日と11月11日 - ラバウル空襲
- 11月13日~12月3日 - 第四次~第六次ブーゲンビル島沖航空戦
- 11月24日 - セントジョージ岬沖海戦
- 11月29日 - ナボイの戦い
- 12月17日 - アメリカ軍はブーゲンビル島のタロキナ基地からのラバウル空襲を開始
1944年(昭和19年)
- 2月15日 - 連合軍がグリーン島(ブーゲンビル島の北西)に上陸
- 3月8日~3月25日 - ブーゲンビル島で日本軍は第二次タロキナ攻撃を行うが失敗
結果[編集]
ガダルカナルの戦いは、日本の海軍に大打撃を与えた1942年(昭和17年)6月5日のミッドウェー海戦とともに、太平洋戦争(大東亜戦争)におけるターニング・ポイントだと考えられている。
日本の勢力圏に最初の突破口を開いた連合軍にとっては太平洋戦線における反攻の開始を意味し、日本軍にとっては敗北の始まりであった。
ガダルカナル島の戦いの後、連合軍は中部ソロモン諸島の西進と東部ニューギニアから北岸沿いの西進により、1944年(昭和19年)3月までにソロモン諸島侵攻当初の目標であった「ラバウルの攻略(のちに『ラバウルの無力化』に方針を変更)」を達成した。
この頃になると連合軍の戦力(空母の数等)はガダルカナル島上陸の頃に比べてはるかに充実していて、中部太平洋でもアメリカ軍の大規模な反攻が始まっていた。この後、連合軍は
- マリアナ諸島(サイパン・グアム)を目指して中部太平洋を西に進撃(ニミッツが指揮)
- フィリピンを目指してニューギニア北岸を西に進撃(マッカーサーが指揮)
の二方面からの作戦に移っていく。
一方、日本海軍はガダルカナルからラバウルに至る消耗戦に対し、基地航空隊だけではなく米軍迎撃の主力となるべき空母艦載機部隊第一航空艦隊および第二航空艦隊をも投入し、そして消耗戦で失ってしまった。この結果、米軍の二方面反攻のどちらに対しても有効な反撃ができないまま、孤立した離島の守備隊が各個撃破されて玉砕していく悲劇が繰り返されることになる。